革命について(1)坂口恭平、佐々木中、三宅洋平、外山恒一に学ぶ、ぼくらの革命

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海外ならば、暴動が起こってもおかしくはないレベル。
東日本大震災の後、そんな台詞を何度目にしたことでしょうか。福島第一原子力発電所への事故対応。被災地への支援、復興プランと実行。今後の原発政策。ことあるごとに、国民の意志とは壁を隔てた場所で、すなわち住民の声が聞こえず、生命が見えない場所で決定されているとしか思えない日本政府の言動に、幾度となく驚きを通り越した何とも言えないやるせなさを味わいました。ニュースを聞きかじった程度ですらそうなんだから、実際に行政に関われば関わるほど、辛酸をなめる思いをした人がどれほどいるか。

そして、震災後に行われた2度の国政選挙での、目眩がするほどの自民党の圧勝。TPP断固反対を掲げて当選した議員を数多く抱えながら、政権を執ったとたんに交渉参加に乗り出すというジョーク。笑えない。選挙制度そのものへの疑問は大きく膨れ上がり、「どうせ選挙じゃ何も変わらない」と政見放送で言い放ったあの人の言葉が脳内にこだまする。氏の言う通り、もはや政府転覆しかないのか。海外ならば、革命が起こっているのだろうか。平和憲法に長らく守られてきた日本人は平和ボケしてしまい、自らの足で立つ力を失ってしまったということなのか。

ちょっと待って。その前に、「革命」って何なんでしょうか。圧政に苦しんできた民衆が一斉に蜂起して、わーっとなって、政府を転覆する。ときには軍が介入し、血なまぐさい映像が飛び交う。そんなイメージがたしかにあります。「革命」とはそういうものなのでしょうか。「革命」には、暴力的な要素が必須なのでしょうか。自らの命や家族との関わりを犠牲にしなければならないほどの覚悟が必要なのでしょうか。家族で食卓を囲んでおだやかに生活を営みたいという願いを持つ市民にとっては、近寄り難い存在なのでしょうか。近寄り難いといえば、たとえば日本共産党は、いまでも共産主義革命を信じているのでしょうか。もしそうだとすると、それはどういった形なのか。

2010年から2012年にかけての「アラブの春」を象徴するエジプトのデモは、SNSによって繋がった人々が、非暴力に徹して、ときにはユーモアを交えながら体制に挑戦し、30年続いたムバラク長期政権を倒すという、まさに革命的な出来事でした。彼らは、あくまでも民衆運動によって勝利を納めたわけです。
それから、他ならぬこの日本で起きた「脱原発」デモ。その大きなうねりは、それまで「デモ」という言葉を聞いた時に連想してきたような「物騒で」「いかがわしい」「やっかいな」デモとは違っていました。知的エリートが自分のイデオロギーを満足させるための言葉あそびや自己満足じゃなくて、ふだん政治活動にコミットしてこなかったような市井の人たちがデモの主役になった。日本がシフトチェンジする転換点の象徴であるように、そのときは思いました(過去記事)。

しかし、革命によって「民主的に」選ばれたはずのエジプトの新政権はあっという間に幕を閉じます。2012年7月に選挙を経て大統領に就任したムルシー大統領が、それからわずか1年後の2013年7月、軍によって権限を剥奪されたのです。これが、エジプト軍による「クーデター」であるかどうかは見解が割れており、エジプト国内でも世論が二分されているそうです(参考)。立場が異なれば、ものの見え方が変わる。絶対解や絶対正義は存在しない。ということを物語っています。わずか1年しか持たなかったから、「アラブの春は間違いだった」と考えるのは安直すぎると思います。

脱原発デモはどうだったのか。さようなら原発集会から1年後にピークを迎えた毎週金曜日の官邸前デモ。あれだけ大きなうねりはかつて無かったはずです。いわゆるイデオロギー的な要素を感じさせる従来のデモとは一線を画した、暴力的な要素を徹底的に排除した「民衆の声」だったはずです。それまで「政治的」な活動には参加したことの無かったような人たちが、やむにやまれず飛び出した「生命の声」だったはずです。しかし、それだけ大きなうねりとなった民衆の蜂起も、官邸にとっては「大きな音」でしかありませんでした(参考)。その後、唐突に発表された意味不明な「収束宣言」と、それに呼応するように収束していった脱原発のうねり。それが日本の現実でした。

どうせ投票したって、何も変わらない。デモなんかしたって、何も変わらない。政権が変わったって、日本の統治機構は変わらないじゃないか。どうせ・・・。ましてや革命なんて大層なコトは、この国では起こりっこないんじゃないか。そう思えてきます。

しかし。

1. 坂口恭平の場合

「革命」はすでに起こっているーーー。

社会をそのように見ている同世代がいます。自分たちが知覚しているレイヤーとはまったく別次元のレイヤーはすでに存在している、と。

震災の後、熊本県に「新政府」が樹立されたという話を聞きました。「初代内閣総理大臣」となった坂口恭平さん(1978年生)は、『独立国家のつくりかた』という著書でその経緯を述べています。「0円ハウス」というアート活動(もともとは卒業論文だったものがリトルモアから書籍として出版され、海外でも話題を呼んだ)で知られていた坂口さんは、その自由な発想で、「新政府」=独自のコミュニティに100人以上の避難者を受け入れます(最終的に約60人が熊本に移住)。さらに、私版「いのちの電話」とも言える自殺防止のホットラインを開設。年間約2000件もの電話を受けたそうです。

津田大介さんのメルマガ「メディアの現場」vol.80(2013年06月08日配信)に、津田さんと坂口さんの対談が収録されています。それを読むと、坂口さんの自由な発想は、既存のしくみに対する「なんでだろう」というラディカルな問い=カウンターから始まっていることが分かります。

津田マガ80号 “新政府”内閣総理大臣・坂口恭平のつくりかたより

坂口:僕は熊本県で生まれて、生後すぐに福岡へ引っ越すんです。父親は電電公社――現在のNTTで働いていまして、僕らの家族はその巨大な社宅群に住んでいました。都市計画で開発された地域で、建物自体は分離派建築会という日本初の近代建築運動をしていた組織が手がけたものなんですけど、僕はいつも申し訳ない気持ちでいっぱいだったんですね。

津田:え? 誰に対して?

坂口:地面です。だって森を切り開いて、地面をコンクリートで固めて社宅をつくったわけで、敷地の外にある自然の土と、敷地内の人工的な土は別物だって感覚的にわかったんですよね。だんご虫とかアリとか、生息している虫の数も全然違ってて、そのことに対して「うちの親父がほんとすみません」みたいな感じだったんです。

坂口:童話の『アリとキリギリス』ってあるじゃないですか。俺、昔からアリよりキリギリスのほうが好きなんですよね。だってキリギリスのほうが合理的だし才能もあると思いませんか? みんなの前で楽しそうに歌って、本当だったらそれで対価を得ていいんだけど、虫だから芸術を貨幣化できなかっただけなんです。アリだって夏の間にキリギリスの歌を聞いて楽しんでたはずなのに、寒い季節になってキリギリスがちょっとヘコんだからっていじめんなよ! って話ですよ。

そんな坂口さんは、「建築家」を志して早稲田大学の建築学科に入ったものの、既存の建築法(植物が根こそぎ掘り出された大きな穴にコンクリートを流しこんでいく過程)がどうしても生理的に受け付けられず、大学3年生のときには「建築を建てる」という思考を完全に放棄したそうです。そして大学4年生の時、多摩川沿いをぶらぶら歩いていて見つけた路上生活者、いわゆる「ホームレス」の家に衝撃を受けます。

津田マガ80号 “新政府”内閣総理大臣・坂口恭平のつくりかたより

坂口:庭には畑まであって、なんか野菜が育っている。なんだこれはと思って、「すみませーん」とか言って住人に声をかけたんです。すると、中からおじさんが出てきて、意外と気さくに応対してくれた。話を聞くと、この場所に住んでもう20年以上になるって言うんですよ。小さいけど立派な家があって、野菜を育てたりご近所と物々交換したりしながら普通に生活している。豊かな感じっていうか。自分が抱いていた「ホームレス」のイメージを覆されて、訳がわからなくなったんです。都会で不要になったものを再利用して、お金をかけずに自作した家――これこそ自分が探していた「建築」なのかもしれないという直感があって、その日から毎日彼らの家を調査することになりました。

坂口:路上生活者たちは都会の真ん中に0円で家を建て、電気システムを構築し、コミュニティを築いている。でも、何も所有していない。俺らとは全然別のレイヤーで生きているわけです。

なるほど、坂口さんが熊本に樹立した「新政府」の構想は、ここからつながっていることが分かります。

津田マガ80号 “新政府”内閣総理大臣・坂口恭平のつくりかたより

坂口:路上生活者の家の調査から始まった「建築とは何か」という問いが、次第に「貨幣とは、生活とは、共同体とは何か」という問いに発展していくんです。0円で暮らしている彼らのような生活なんてありえないとハナから思い込んでいる俺らは、実は頭がイカれてしまってるんじゃないか。なんで水や火を使うのにお金がかかるのか。なんで月収18万円の人が6畳のワンルームに月8万円もの家賃を払わないといけないのか。これって、よく考えるとおかしくないですか? 個人が共同体として集まって協力しあえば、生活費が0円で住む生活が実現するんじゃないか。0円ハウスの住人の暮らしを見ながら、そんなことを考えるようになったんです。

しかし、その坂口さんは今年4月、新政府の終了を突如宣言。

「昔からのDIY精神の延長」であると本人も語っていた「新政府」が、なぜたった3年足らずで終了してしまったのか。革命は失敗だったのか。下記のインタビューでその理由が述べられています。

坂口恭平さん(建築冒険家・作家)インタビュー「すでに革命は起きている」 – ハフィントンポスト

坂口さんは、自らが「社会運動家」になることを嫌ったようです。津田マガのインタビューでも、「新政府」は社会活動ではなく、アートの一環であると語っていました。

同記事より

僕の場合、結局は作品をつくることしかできない。だから『何かを変えることは革命ではない、すでに革命が起きていることを思考の転換によって見つけだせ』とずっと言っているんです」

彼自身が、ホームレスから「俺らとは全然別のレイヤー」を見出したように。従来のシステムに囚われない「別のレイヤー」が存在するということに気づくこと、それ自体が「革命」なのだとしたら。

「新政府」を終了し、次に彼が取り組んだのは、小説。「僕はずっと同じことを言っている。『すでに革命は起きている』。じゃあ、ちょっと子供の時のことを思い出してみようぜってことなんです」ということだそう。

坂口恭平さんのツイートより

分裂症としか思えない坂口恭平がこれが自分の幹であると確信するための旅が今回の幻年時代の執筆でありました。これからも僕は分裂した作品を発表し続ける。しかし、幹はやはりテキストだと知覚できた。7月20日。ここからまた次の人生が始まるような気がしている。幻年時代は絶対に読んでほしい。

彼が「新政府」を終了したこと、そして小説を書いたこと。そのことについての是非は、ぼくにはよく分かりません。「新政府」を放り投げたのか、それとも独自のコミュニティとしてスタートした共同体は継続していくのか。今後また何をやらかしてくれるのかも未知数です。けれどもこの小説は、いずれ読んでみたいと思います。

2. 佐々木中の場合

先日、図書館から借りてきた本。

実は「革命」という言葉について意識するようになったのは、この人の文章を知ってからです。作家、哲学者の佐々木中さん(1973年生)。彗星のごとく現れ、思想界に衝撃を与えたと言われる第一作『夜戦と永遠』が気になるのですが、そこで語られている「フーコー」も「ラカン」も「ルジャンドル」も、何一つ知らない門外漢がいきなりミーハー的な気分だけで何百頁もある分厚い本を読もうとするのは無謀だと思い、まずは入門編からと、対談やエッセイをまとめたという本書で初めて氏の文章に触れました。つい先日のことですが。

驚きました。

正直言って、聞いたことのない単語がたくさん出てくるし、フーコー?誰それ。ってぐらいの素養しかないので、たぶんそこで語られている意味も半分くらいしか理解できていないんだろうなあということが自分でも分かる。すなわち敷居が高い。にも関わらず、言葉がすっと入ってくる。なによりドキドキする。

わからないのに、ドキドキする。これって、芸術とか音楽での体験とよく似ています。意味がわからないながらも、リズムに身をまかせて読み進めるうちに、いつのまにか恋い焦がれるように頁を捲る自分を発見する。最初の数十頁を読んだだけでそう言ってしまうのも恐縮ですが、読書でそんな体験ができるということ自体が驚きだったのです。

以下に、ぼくが本書で読んだ最初の数十頁のテキストが掲載されています。

『夜戦と永遠』佐々木中氏インタビュー – 保坂和志公式ホームページ

長くなりますが引用します。

『足ふみ留めて』(「永遠の夜戦」の地平とは何か)より

いま、多くの人は恐怖し、怯え、苦しんでいます。「自分」と「現在」が分からないという、「無知」に怯えている。自分が何者なのか、現在はどうなっているのかを知らなければならない、情報を得なくてはならない、それを知らなければ取り残される――そんな脅迫が遍在している。実は「自分探し」と「現在探し」は同じことです。そこに「それを教え、説明してやろう」という人々がやって来る。搾取する側にいると思い込んでいる「彼ら」は世界をパッケージングされた全体とみなし、それを認識する、つまり「見下し」ます。しかし、そのような「全体化された社会」を超越論的な自我として認識する「自分」を保とうとする努力は、それ自体が恐怖に動機づけられている。実は彼らも、自分自身何も分かっていないのかもしれないという不安と恐怖に取り憑かれており、「自分」を、そして「現在」を説明し なければならないという強迫観念にまみれているわけです。だから彼らの多くは常に狂ったように「自分語り」をする羽目になる。
 「自分」と「現在」を説明しなければならない、そのためには知を、情報を得なくてはならない。この強迫観念には実は何の根拠もありません。ジル・ドゥルーズは「堕落した情報があるのではなく、情報それ自体が堕落だ」と言いました。ドゥルーズだけでなくハイデガーも、「情報」とは「命令」という意味だと言っている。つまり、命令を聞き逃していないかという恐怖にまみれて人は動いているのです。命令に従ってさえいれば、自分が正しいと思い込めるわけですか らね。しかし、ここで卒然として「命令など知らない」と言えるはずです。何かを知らなければならない? そんなことは「知ったことではない!」とね。私の現在は私のものだし、私は私のものです。自分も現在もここにあるのです。どこに探しに行く必要があるのですか? 何を知る必要があるのですか? 情報を、つまり命令を聞かなくてはならないだなんて、誰が決めたのですか?
 フーコーも皮肉げに言っています。「哲学者の役割が、いつのまにか現在とは何かという質問に答えることになってしまった」と。繰り返します。われわれに必要なのは「そんなのは知ったことか」と言う勇気です。「社会批評家」たちは、「すべてについてすべてを知っている」という幻想に縋る。だから彼らはいつ何に対しても気の利いたコメントが言えなくてはならないという焦慮に苦しまなくてはならなくなる。そして「専門家」たちは、「ひとつについてすべてを知っている」という幻想に縋る。結局はどちらも幻想に過ぎないのです。こうした幻想に、こうした焦慮に、こうした脅迫に、具体的に抵抗しなければならない。こうしたものは、知らない、わからないという苦しみと悲しみと恐れを、そして諦めを生むだけです。ラカンは、「すべてについてすべてを」そして「ひとつについてすべてを」という欲望は、結局は無難で安全で何も変えない「ファルス的享楽」に帰着するにすぎないと言ったではないですか。
 知らなくていいではないか。知ってどうするのですか。わかってどうするのですか。こうした知と情報をめぐる搾取と恐怖の構図に具体的に抵抗しなくてはならない。たとえ無知を誹られようが、必要ならば自覚的に無知を選び取らなければならないのです。それは政治的な抵抗そのもの「でも」あるはずです。

明らかに、ぼくなんかとは頭脳の解析回路が違って、理路整然と、また文学的な言葉で語られる文章に対して、やっぱり身構えてしまう気持ちはあります。しかし、佐々木さんはそこで言うのです。「無造作に掴みかかるように読めばいい。それだけの話」だと。「フーコー」も「ラカン」も「ルジャンドル」も、何一つ知らないあなたにも言葉は届くのだと。言葉とは、そういうものであるのだと。

そして、実際に佐々木さんの言葉は、ぼくに届いている。

芸術や音楽に触れたときのように、意味がわからないながらもドキドキする、という体験についてもその理由がわかりました。言葉とは本来、芸術であり音楽であったのです。

同記事より

ここで改めて文学とは何かというと、情報に還元できず全体性も構成しえないものである、ということになる。言葉は情報ではありませんからね。ルジャンドルが言う通り、情報化も数値化もされえないテクストの操作やそれをめぐる所作のあり方は、ダンスや料理や絵画など膨大なヴァージョンがありえます。われわれがまだ知らぬ形式も含めて。

現実を言語の外部として実体化してしまう考え方はいまだに跋扈していますが、実に退屈です。言語の外部がありそれは絶対的に語れないというような、もしくは言語の外すらもすべて語りうる、というような考え方もね。実は言語と言語の外を分けた時点で同じ穴の狢です。言語はつねに言語の外を含むし、言語の外においてこそ言語として生成する。僕はこの本で「言語は、滲んで溶ける水溶性の染みでできた、斑の身体を持つのだ」と書きました。言語と言語の外を截然と分ける思考からはもう何も生まれません。

言葉では言い表せないことがある。ぼくはそう思っていました。だから、芸術や音楽、あるいはダンスや武道、芸能といった多種多様な表現方法が存在しているのだと。しかし、そういう考え方は、言葉ですべてを説明できるという考えと表裏一体であると佐々木さんは言います。すなわち、言語と言語の外を截然と分ける思考という点で同じだと。

なんだか分かったような、分からないような、混乱してくるような、それこそ斑のように滲んだ水溶性の染みみたいな頭の中になってしまいます。ぼくは、この感覚をうまく伝えるだけの言葉を持ち得ていない。むりやり言い表すとしたら、こういうことでしょうか。世界は言葉であったのです。

世界が言葉であるように、革命とは言葉によってもたらされてきた。そう思ってしまうくらい、佐々木さんの文章は「革命」という言葉を想起させます。自分が知覚しているレイヤーとは違うレイヤーがある、ということを根源的な部分から突きつけられる。言葉とは、もともと豊穣性を持ち、多種多様な可能性を秘めていた「テクスト」であったと佐々木さんは言います。

なぜラカンとフーコーにルジャンドルを並べなくてはならないのか。それは仰る通り彼が中世解釈者革命について書いているからです。一二世紀中世解釈者革命において、多種多様な可能性を秘めていた「テクスト」は「情報の器」にすぎないものに切り詰められました。客観的な情報だけが規範にかかわるものとされるようになりました。現在の「情報理論」「情報化社会」「データベース」と呼ばれるものの出発点がここにあります。逆に言えば、もう八〇〇年以上もわれわれは「情報革命」を生き、「すべては情報である」などと言い続けていることになるのですよ! それを新しいと思い込んでいる人ばかり蔓延(はびこ)っているのは、さすがに滑稽ではないでしょうか。
 『夜戦と永遠』を読んだある方がこう言いました。「新しいテクストを作り、意味を作り、歌を創り、新しい社会を創り出す――これは当たり前のことではないですか」と。もちろん僕は「当たり前です」と答えました。逆に、いまなぜこうしたことが当たり前のことではないように言われているのかが分からないのです。一言で言えば、革命は可能だということです。しかし、坂口安吾が言うように「次の一回の革命ですべて終わるなどと思ってはならない」。やはり、ここでも「ひとつ」と「すべて」の欲望が問われているわけです。次の「唯一の」革命で「すべて」が終わるなどということはない。それにしても驚いてしまうのですが、革命は可能だなどという当然のことを、なぜ今更大声で言わなければならないのか。ドゥルーズ=ガタリが言うように「なぜ別の革命が今や可能になったと考えないのか」。
 念を押しておきます。暴力革命は革命の数あるヴァージョンの一つにすぎません。書き歌い踊り描く、本来は紛うことなく政治的であり芸術的でもあるさまざまな技芸の果実――これを総称してルジャンドルは「テクスト」と呼ぶわけですが――によって、太古から人は自らを統治してきたのです。ところが、解釈者革命以来、この「テクスト」の意味合いが縮減されていき、「情報」とその運搬機としての「書類」や「データベース」だけが規範や政治にかかわるのだという、 実は歴史的地理的に限定されたものにすぎない観念が出現します。その観念は植民地主義によって世界に輸出された。それから規範や政治は「情報化」されてしまった。だからこそ、逆にそれへの抵抗もさまざまな可能性を縮減されて、単なる「暴力」の噴出でしかなくなったわけです。こうして情報と暴力の二項対立にわれわれは閉じ込められることになった。

たとえば、音楽のもつ力を深いところで信じている人と、音楽を流通産業のひとつとして捉えている人とでは、つくる音楽が違ってきます。やっぱり、それは聴けば分かる。まあ、好き嫌いの範疇になってくるのかもしれませんが。

佐々木さんは、いまこの時代においても「テクスト」が息づくということを、信じている。だから、彼が吐き出す言葉は艶を帯びている。その艶のある言葉に、ぼくはドキドキし、恋い焦がれるように頁を捲ってしまうのです。
そこではニヒリズムは無縁であり、脳味噌は躍動しています。

 ニヒリズム批判の話ですから、ニーチェを引きましょう。彼はこういう意味のことを言っています。いつかこの世に変革を起こす人間が現れるだろう。その者にも迷いの夜があろう。迷い苦しみつつ、ふと手にとって開く本があるかもしれない。そのたった一行から、ほんの僅かな助けで変革は可能になるかもしれない。その一夜の、その一冊の、その一行を編纂するために我々文献学者は存在しているのだ。その極小の可能性、しかし絶対にゼロにはならない可能性に賭けること、これが我ら文献学者の誇りであり、闘いである、と。
 こうしてニヒリズムに抗することは、現在においても可能です。これは「現在を追いかける」ことに汲々としていると見えなくなります。ウィトゲンシュタインが言うように「現在を追いかける者はいつか現在に追いつかれる」。話が一巡りして最初に戻りますが、現在はこうなっているからこうしなければ乗り遅れるとか、こんな時代になってしまったから諦めてこうするしかないなどという抑圧的な言説は、惨めな恐怖と怯えと卑屈の産物でしかない。その一夜の一行を信じることができない惰弱さの産物でしかない。ですからわれわれはこう言いましょう、「そんなことは知ったことではない!」。

どうですか。ワクワクしませんか。

ちなみに、同記事中で佐々木さんは社会的なことについても言及していますので、これも転載します。とても分かりやすいです。

『夜戦と永遠』では、ルジャンドルが言っている「系譜原理」について書きました。「系譜原理」とは、子どもを産み育てることの制度的な保障を行う原理です。ルジャンドルは子どもを産み育てることを保障できない国家の形式は存在を許されない、とはっきり言っている。ごく簡略に言えば、これは二重の再 分配の原理です。つまり再生産=繁殖のための物理的資本の再分配と象徴的資本の再分配です。貨幣も「信用」に基づくものなのですから、この二つは切り離す ことができません。ベーシック・インカムで全住民が月額八万円を与えられるという計算がありますが、それなら三人家族であれば二四万円になります。これは、実は「君たちは生きていていいのだ」という言語的なメッセージを与えることにもなるわけですね。人民に対してこのようなメッセージを与えられない制度的形式は、国家に限らずやはり解消されなくてはならない。
 ご存じの通り、「高等教育の漸進的無償化」を批准していない国は、日本とマダガスカルとルワンダの三ヶ国だけです。象徴的資本の再分配をする気がない、つまり系譜原理を機能させる気がないわけですね。また、女性の働きやすさの指数も国連の機関から発表されていますが、日本は先進国で最低です。女性が大学を出て専門職に就いていたとしても、子どもを産み育てるために一時でも辞めると元の給料は保障されず、再就職しても生涯年収は激減する。言い方は悪いですが「パートのおばさん」になってしまう。大した「先進国」ですね。ドイツで、たとえば働く女性に育児休暇五年の後にも同額の収入を保障することにしたら、それでも他のEU諸国に批判されたと聞きました。休んでいる五年間分の昇給も保障しろ、とね。こうしたことと「少子化問題」が別のことだと考えられているわけです。立場の左右を問わず、子どもを産み育てることができない国家の存立は危ういというのは当然のことだと思うのですが。

「少子化問題」も、こうして語られると文学的ですらあります。というか、文学と政治はもともと不可分なものであり、それは「テクスト」であったということを、佐々木さんは体現しているのでしょうか。「テクスト」とはもともと豊穣性をもったものであったこと、そして読書という行為そのものが「革命」たり得ること、そのことを知ったこと自体がぼくにとっては革命的ですらありました。

最後に、氏の代表作でもある『切りとれ、あの祈る手を』の帯に記載されている推薦文とコピーを紹介しましょう。

「最近の批評は分析的であるがゆえに現状追認の罠に陥っている。ただ佐々木中だけが彼らのはるか上空で語り、その声が真の“革命”を私の心に芽生えさせた。」保坂和志氏

「取りて読め。筆を執れ。そして革命は起こった。」

3. 三宅洋平の場合

「政治のことば」を変えようとしているーーー

三宅洋平さん(1978年生)の「唄う選挙演説」を見て、ぼくが感じたのはそういうヴァイヴでした。こういう選挙演説もアリってこと、それ自体がおもしろい。

「政治のことば」を変えるって、べつに「チャラい言葉」を使うってことじゃないです。ぼくみたいなひねくれ者には、三宅さんの演説は熱すぎて眩しいし、いきなりタメ口っていうのもどちらかというと苦手です。だけど、そういうことじゃない。「政治のことば」を変えるって、そういう表層的な意味じゃない。「政治をマツリゴトに」という彼の主張は、スーツを脱いで、新しい「政治のことば」を紡いでいこうぜ、ということだと思います。

「俺も分かんねえことだらけだからさ、一緒に勉強していこうよ」と三宅さんは言います。アイヌ語で「チャランケ」という言葉があるそうです。なにかもめごとがあった場合、彼らは何日間でも持てる英知を絞って論争を繰り広げる。三宅さんが主張しているのは、徹底的な「対話」なのです。

自分の周辺から少しずつ、小さな「チャランケ」を紡いでいくこと。そのことについて話し合うこと。三宅さんのそういった姿勢を知ったときに、親和性を感じたのは、2011年9月17日にアメリカのウォール街で始まった「OWS(Occupy Wall Street/ウォール街を占拠せよ)」のこと。かつてぼくは、OWSが官邸前デモとも重なって見えました(過去記事)。

「お互いの声を増幅させ、皆の声を聞き合おう」

それは、民主主義を取り戻すための草の根ムーブメントであるように思えます。人間マイクロフォンとして、ナオミ・クラインの言葉をくり返して喋る人々の、祝祭的な雰囲気。それは「よりよい未来を作る」という行為に、自らがコミットしようとしている人だけが持ち得る「喜び」です。

三宅さんが「チャランケ」によって変えようとしているのは、「公」という言葉の概念。「公」を自分たちのマツリゴトとして引き寄せようとしている。「公」という言葉の使われ方と「Public」という言葉の使われ方って、日本とヨーロッパではまるで違うんですね。それらの言葉を聞いて想起するイメージもたぶん違うし、それらの言葉が使われるバックグラウンドもまったく異なっている。

日本では、公務員は既得権益とされてバッシングの対象になります。公務員や議員を減らせという声が世論としての主流です。まるで公務員が多いことが問題であるかのように扱われていますが、日本は公務員の少ない国であり、すべての欧米先進国より少ないというデータもあります(参考)。「滅私奉公」なんていう言葉が美徳としてあることから考えても、日本における「公」という言葉の位置づけは推して知るべしです。

ヨーロッパで「Public」というのは「自分たち」のこと。あなたは自由な意志をもって生き、この世界とルールをつくっていく一人でもあるということ。「公」とは「お上」のことではなく、「どんな社会をつくりたいのか」という、自分の意思を持った「自分たち」のことなのです。

人々の意識下にある「お上にお任せ」は根強い。民主党が崩壊した後の自民党への振れ幅をみていると、そう感じざるを得ません。民主党がダメだったからやっぱり自民党、だなんて短絡的すぎる。知的な逡巡がなにも無い。だけどしょうがない。長いこと「お上にお任せ」でやってきた日本市民のバックグラウンドはそういう文化的土壌なのだから。一度や二度の政権交代で簡単に意識が変わるわけないんです。何十年もかけて、言葉とともに成熟させていかないといけない。

三宅さんが緑の党から全国比例区で出馬した先月の参院選。ぼくは「政治のことば」が変わっていくことに期待して、彼に一票を投じました。そういう投票の仕方もアリってことが自分でもおもしろかったし、結果として、三宅さんは落選でしたが、がっかりはしなかった。選挙制度をよく知ってみれば、無名の政党から比例区で出馬すること自体が無謀であったことが分かるし、そう考えると個人名での17万票という得票は、あの参院選でのトピックのひとつとして挙げていいと思います。

三宅洋平さんは、「全候補中26番目の得票で一人の政治的立場としての存在感は生む事ができた」としつつも、「ルールはルール。それを理解して臨んだので言い訳にするつもりはない。比例で勝つには、強い党を作らなければならない」と言っています。

今回、彼に投票した人々が、それをきっかけにして選挙制度の不備について知ったり、あるいは原発や今後のエネルギー政策について話し合ったり、民主主義について考えたり、、、つまりあの17万票は議席には結びつかなかったけれども、それがもし「お互いの声を増幅させ、皆の声を聞き合う」という「チャランケ」に結びつく出発点になるのだとしたら、それはたった一つの議席よりも、もっとずっと大きな意味を持つものになるかもしれないと思います。

「滅私奉公」から「活私開公」へ、「公」という言葉の概念が変わるとしたら、きっとそれまで無関心だった人たちの政治に対するスタンスも変わります。だいたいにおいて、「政治」という言葉を聞いたときにまずはじめに受けるネガティブなイメージをなんとかしたいですよね。政治家って、本当はクリエイティブな仕事であるべきだと思います。もしそのように「政治のことば」が変わるならば、それは「革命」だと思います。

4. 外山恒一の場合

マルクス主義、アナキズムを経て現在はファシストーーー

さて、これまでの3人とはちょっと様子が違います。なにせ「過激派」です。九州を活動拠点とする革命家、外山恒一さん(1970年生)。まず見た目からして違う。前者3人はイケメンであり、ルックスや佇まい、あるいは著作物や宣伝活動に至るまで「センスがよい」。これは大事なことで、政治を文化運動として捉えるならば、彼らが支持される理由には、政治的なスタンスだけではなく、文化的な感覚があります。彼らは「絵になる」のです。それは「センス」と分かち難く結びついている。センス=美意識と読み替えてもいい。

もしかすると、外山さんの風貌や佇まいも彼なりの美意識の表れなのかもしれない。ものすごく頭のいい人物だと思うんです。そして、誰よりも「戦略的」であると。全部わかった上でやっている、独りでね。それがすごいと思う。

結果のわかっている参院選の選挙期間中、彼は単独で【全国ツアー】を敢行しました。『原発推進派ほめご大絶賛ツアー』と題された活動の様子が動画で記録されています。
外山恒一「原発推進派ほめご…大絶賛ツアー」~新潟~ 2013.7.5 – Youtube

街宣車の頭上には「こんな国もう滅ぼそう原発で」「私たち過激派は原発推進を続ける自民党を支持します」と書かれた看板。BGMにタイマーズの『原発音頭』を流しながら、外山さん自身がマイクで「こんな国滅ぼしましょう原発で」「私たち過激派は自民党を断固支持します」とくり返し、市中を街宣して周っています。

なんというユーモア。
それを独りでやってしまう度胸。

外山さんは自身のツイッターで、このツアーについて解説しています。
「今回の「自民党ほめご(以下略)」の目的は(1)自民圧勝に決まってる選挙結果で全国の反原発派の士気が下がるのを防ぐ(2)反原発派に選挙以外の方法を追求する方が良いと悟らせる(3)ますます人気者になる…ためにとりあえずなんか面白いことをやる、なんで短期的な“実効性”の類はハナから眼中にない。」

山形にも来たみたいですが、ぼくは街頭で遭遇することが出来ませんでした。実際にどのような「空気」を街に持ち込んでくれたのかを体感することができず、残念です。ついでに紹介しておくと、歌も上手いですね。

そんなこんなで、ツイッター上ではそこそこ話題を呼んでいた氏ですが、参院選が終わった後の7月27日、朝日新聞紙上に掲載された下記のインタビューで、彼の名は一躍(一部の人たちの間で)轟くことになったのではないでしょうか。

(2013参院選)勝ったのはだれだ 活動家・外山恒一さん – 朝日新聞

彼が以前から主張していることのくり返しではありますが、あの参院選を経てしまった現在となっては、そのラディカルな問いかけは真摯に響いてきます。

同記事より

選挙なんか多数派のお祭りだ、選挙で何かが変わると思ったら大間違いだという私たちの主張が、やっと理解されつつあります
 (中略)
選挙では提示された選択肢の中からよりマシな方を選ぶしかない、政治とは悪さ加減の選択なのだと、リベラルな民主主義者はずっと言ってきたじゃないですか。民主主義が機能した結果が、今後3年間は続く自民党1強体制です
 (中略)
選挙によって、人々は意思決定過程に参加させてもらったかのように勘違いしがちですが、体制側の方針なんか最初から決まっているんです。多数決で決めれば多数派が勝つに決まっている。僕は多数決に反対しているんです。自民圧勝を受け、『自民はおごらず、少数意見にも耳を傾けるべきだ』なんて言っている人がいますが、なんてお人よしなんでしょう。傾けるはずありません
 (中略)
民主主義者の人はそう言いますが、ファシストにとってはファシズムの方が、マルクス・レーニン主義の人にとっては共産党一党独裁の方が、民主主義よりもマシな最善の制度です。民主主義者の悪いところは、民主主義もまたイデオロギーであるという自覚がないことです
 (中略)
世論調査をすれば脱原発派が多くても、民主主義の結果、原発はなくならない。あなたの眼前で起きていることは全て民主主義が機能した結果です。だから民主主義そのものを疑うべきなのです

困ったことに、いちいち納得させられます。穏健リベラルおじさんの時代は終焉して、過激派の時代に突入したのかと思ってしまうほど。参院選の後に目にした、耳にした、どんな「知識人」「インテリ識者」の言うことよりも、外山さんの言っていることが、いちいち腑に落ちる。これは、ほんとうに困ったことです。まずいなあ。

だって彼、過激派じゃないですか。選挙なんか意味が無い、民主主義を信じるな、ファシズムだ、と言っているわけじゃないですか。

多種多様なレイヤーが存在するということを認識し、であるからテクストによってそれらを可視化して、徹底的に対話をして、ものごとを暫定的に決めていくという考えは、あくまでも「民主主義」を前進させよう、成熟させよう、という土台が前提にあります。だから「次の一回の革命ですべて終わるなどと思ってはならない」し、何十年もかけて、言葉とともに文化的土壌を成熟させていかないといけない、と思っているのです。

おそらく同じように考えているであろう記者の「将棋の駒を一つずつ進めることを考えた方が現実的では」という質問に、外山さんは「それは欺瞞だ」と答えます。

フランスやアメリカで将棋盤がひっくり返されたから議会制民主主義が生まれたわけだし、戦後の日本だって、アメリカに将棋盤をひっくり返されて生まれているのですから。このゲームのルールでは絶対に自分たちには勝ち目がないのに、それでもゲームを続けようとするのは不真面目です。そもそも日本では、ゲームのルールは書き換えられるんだということすら忘れられている。だから頑固な反原発派の私が、こうやって不真面目に訴え続けているのです

民主主義なんかでは、ものごとが決められないとさえ言っている。

有権者は消費者ですよ。それでいいじゃないですか。今日は何食べようかとか損した得したとか言いながら一生を終える。政治なんかに興味を持たずに暮らせるのはいい社会です。賢い有権者になれなんて余計なお世話です。賢くなれと有権者を叱咤するよりは、選挙権を免許試験制にして、たとえば100点取ったら100票、20点なら20票と賢さによって差をつければいい

「知」に対する態度としては、佐々木中さんとは真逆であるようにも見えます。「知」を持てる者の、持たざる者への傲慢な態度にも見える。彼の言うことを真に受けてしまうのは危険であるようにも思える。
しかしあるいは、「知らなくていいではないか。知ってどうするのですか。」という点では、佐々木さんと同じなのかもと思ったり。「それは欺瞞だ」という発言とは矛盾するようですが、「短期的な“実効性”の類はハナから眼中にない」とも言っていたり。

まだよくこの人のことが分からないんです。だけど、前者3人と並べて語ることがふさわしいのかどうかは分かりませんけれども、「革命について」と題したこの原稿に、彼の名前を取りあげないわけにはいかないという思いに、ぼくは抗うことができませんでした。

ポレポレ東中野で上映中の、映画「立候補」というドキュメンタリー映画が大きな話題を呼んでいます。ぼくも観ましたが、ぐいぐい引き込まれて目が離せませんでした。泡沫候補を題材に、「泡沫候補たちはなぜ300万円も支払って選挙に立候補するのか?その原動力を探ったドキュメンタリー映画」というふれこみですが、映画を観ても、その疑問は少しも解けませんでした。あえて言うならば、分からないということが分かった。マック赤坂という人物について、理解しようとすればするほど、理解できなかった。けれども、もっと大事なことが分かりました。

彼らが立候補する理由。そんなもの簡単に分かるものか。簡単に分かるような理由なんて、ペラペラの嘘っぱちですよ。圧倒的アウェイ環境の中で、ひとり阿呆のように踊り続けるマック赤坂の姿を見て、あるいは嘲笑と罵声を浴びせる群衆を前にして、大きな問いを突きつけられるのは自分自身です。彼ら泡沫候補が存在する理由とは、すなわち、ぼくらが存在する理由でもあったのです(過去記事)。

この映画は、タテ糸となる要素とヨコ糸となる要素が絡み合って出来ています。おもに供託金のしくみ等を取り上げながら、選挙制度への批判、あるいは「政治」そのものへの根源的な問いかけをなすのがタテ糸。このタテ糸の骨子となってるのが、外山さんの東京都知事立候補時(2007年)の政権放送、そしてインタビュー映像なのです。彼の言葉が、この映画を引き締めている。それから、マック赤坂氏をはじめ泡沫候補を取り巻く様々な人間関係、人間模様がヨコ糸となっています。そしてクライマックスでは、タテ糸とヨコ糸が奇跡的な邂逅を果たし、観る者に「革命」をもたらします。まさに、いま観るべき映画だと思います。

0. わたしの場合とあなたの場合

やっとここまで来ました。読んでくれてありがとう。

もういちど、ぼくも、あなたも、自らの投票行為をふり返ってみましょう。

政党選挙の意味自体が問われています。二大政党制は完全に幻と消えました。自民党に対抗し得る政党はどこにもない。リベラルな勢力は徒党を組むことなく空中分解してしまった。マニフェストは形骸化し、いかに相手側が公約を守れないか、あるいはいかに口だけ良いことを言っているか、をあげつらうためのものになってしまった。

今後、選挙という機会があったとして、ぼくらは何を根拠に投票したらいいのでしょうか。政策なのか、人なのか、何を根拠に投票するのか。

たぶん多くの人にとっては「いかに騙されないようにするか」が焦点だったりします。「民主党にはもう騙されない」という有権者の猜疑心の結果が、同党の現在の惨状でしょう。自民党だって信用できないし、じゃあ信用できるところなんてどこにも無いんだから投票しないという選択も出てくる。
これって完全に「消費者マインド」なんですよね。コストパフォーマンスまで考え、誇大宣伝に騙されないように、「いい商品」を手にしたい。いかに賢い消費者になるか、ということを自らに課している。だから、大手代理店と手を組み、マスメディアを巻き込んだ広告戦略を手中にできる「なんとなくやってくれそうな」大手が大勝しちゃう。けっきょくのところ、勝ち馬に乗るという行為と変わりない。

でも、「いかに騙されないようにするか」という基準で投票することは、果たして生産的な行為でしょうか。有権者として政治にコミットしていると言えるんでしょうか。
というか、「騙される」ことってそんなに悪いことなんでしょうか。そもそもほんとうに「騙された」のでしょうか。「騙された気になっている」だけかもしれません。テレビや新聞がこう言っているから、わたしは騙されたのだ、というふうに感じているならば、それは虚像です。

ぼくが、あなたが、休日の時間を割いて投票所に足を運び、投じてきた一票が意味をもつのは、テレビや新聞の中ではありません。ぼくや、あなたの生活の中です。自分の家計を見てみましょう。確定申告で自分の課税率を見てみましょう。パートナーや子供たちの声を聞きましょう。テレビや新聞は、そこまで調べてはくれません。

「革命は子どもの生を「守護する」ことでなくてはならない」
佐々木中さんの言葉です。

本記事に取りあげた4人は、みな70年代生まれでぼくと同世代。「反原発」という点でも一致しています。

坂口恭平、佐々木中、三宅洋平、外山恒一。
彼らの言動に触れたとき、ぼくはドキドキする。あるいはワクワクする。自分の中の直感が、これは自分にとって大事な体験だと教えてくれる。脳味噌が躍動する。

改めて、「革命」とは何か。辞書で調べてみると

かく‐めい【革命】
1 被支配階級が時の支配階級を倒して政治権力を握り、政治・経済・社会体制を根本的に変革すること。フランス革命・ロシア革命など。
2 物事が急激に発展・変革すること。「産業―」「流通―」
3 古代中国で、天命が改まり、王朝の変わること。
4 陰陽道で、辛酉の年のこと。争乱が多いとされて、改元などが行われた。

とあります。しかし、そんな既存の定義などはどうでもよろしい。
自らの中に眠る被支配意識が、支配意識を倒したとき、それまでの思考の枠組みが根本的に変革される。それは、とってもエキサイティングな体験です。

そのような「革命」とは、絶えず自己の内側に話しかけ「確かめる」という行為を抜きにしては、なし得ない。
JAPANESE SYNCHRO SYSTEMの曲(2006年)を聴いて、そんなことも思いました。

もういちど、確かめよう。
彼らの言動に触れたとき、ぼくはドキドキした。ワクワクした。自分の中の直感が、これは自分にとって大事な体験だと教えてくれた。脳味噌が躍動した。

それが「革命」につながるか否かはさて置いたとしても、「考える」ということは本来そういった躍動感を伴う自由な行為なのであり、それこそが「学び」の源流なのではないかと思う。

彼らになら、騙されてもいいと思う。
ぼくは、その直感を信じたい。

革命について(2)はこちら

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1件のコメント

  1. 視点・観点が変わる、このような要素や文章の記事を見て、感心しました。
    貴ブログは、初めて見たのですが、ためになるブログだと思いました。『情報』としてためになるブログは、たくさんあるんですが、見方を提供していただけるものは稀です。非常にいいです。
    ところで、ぜひお伝えしたいことがあります。それは、この世界の現状の見方のベース自体が変わることです。観念的な意味でなく、非常に実際的な差し迫った社会的なことです。選挙に関してです。
    http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=271583
    http://ameblo.jp/ghostripon/entry-11455576395.html
    http://ameblo.jp/ghostripon/entry-11454226722.html
    http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2012/12/19/6664618
    http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2012/12/20/6665326
    http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2012/12/23/6667870
    http://keibadameningen.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/httpwwwcitykita.html
    http://ameblo.jp/ghostripon/entry-11455577213.htmlと
    http://ameblo.jp/ghostripon/entry-11581446773.html
    (この2つ、傾向が全然異なる)
    http://ameblo.jp/ghostripon/entry-11559799083.html
    http://saisai25.blog.fc2.com/blog-entry-11.html
    http://saisai25.blog.fc2.com/blog-entry-6.html
    http://ameblo.jp/ghostripon/entry-11581448228.html
    http://ameblo.jp/ghostripon/entry-11579530827.html
    http://ameblo.jp/ghostripon/entry-11578454463.html
    http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2013/07/24/6917082
    http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2013/07/27/6923763
    http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2013/07/31/6930051
    http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2013/07/25/6919876
    http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2013/07/26/6921798
    http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201307/0006181530.shtml
    http://senkyo.mainichi.jp/news/20130729ddg041010007000c.html
    http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2013/07/25/6920114
    http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2013/08/01/6931050
    http://thot-diary.cocolog-nifty.com/gukumatz/2013/07/post-99f0.html
    https://www.youtube.com/channel/UC1kBq6SsfKPmwOqVmxdssKA
    http://blog.goo.ne.jp/fukudaikichi/e/2ac8ee3cfc2d147da40f3e6f7b83b70f?st=0#comment-form
    http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2013/07/24/6917341
    以上、ためになりましたら、嬉しいですm(_ _)m

    Reply
  2. http://ameblo.jp/ghostripon/entry-11455577213.htmlと
    http://ameblo.jp/ghostripon/entry-11581446773.html
    (この2つ、傾向が全然異なる)

    参院選と、衆院選の比較です。
    選挙制度の違いは理解しています。
    しかし参院選の比例と選挙区の票の関係がほぼ変わらない結果(=ある一党の支持者が全体で非常に多くいる)と衆院選の結果は齟齬があるかなと思いました。

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