家を買うということ

Tweet about this on TwitterShare on FacebookShare on Google+Share on TumblrEmail this to someone

こういう意見があります。

住宅ローンというのは、土地の値段が上がるという前提で、利息を払っても、早めに財産化した方がいいという考えで成り立っている制度。土地の値段が3分の1になったら、そんなことをしたら、大損をする。メーカーも政府もそんなことはわかっているが、住宅を建てることで景気が浮揚するからどんどん勧められる。建てて意味があるのは「価値の落ちない住宅」、「土地の値段がガンガン上がるところ」。やすい、ぎりぎりのところで買うとほんとローン地獄。

竹内昌義さんのFacebookより転載

その通りだと思うし、だから「家を買う」ということに対して二の足を踏んでしまうし、建築中のいまでも「どうだったんだろう」「ほんとうによかったんだろうか」と思ったりもします。これからは、スモールハウスが注目されていくのかもしれません。

少し前にアメリカでサブプライムローンが問題になりました。これは、低所得者層でも借りやすいように当初の2〜3年間は低い固定金利が適用され、その後は金利が大幅に上がる仕組みの住宅ローンです。住宅ブームを背景に低所得者層での利用が増えましたが、住宅価格の上昇が止まり金利が上昇したことから、返済不能に陥るケースが相次ぎ、低所得者層の住宅は次々と差し押さえられます。マイケル・ムーアのドキュメンタリー『キャピタリズム』でも、その生々しい現場が撮られていました。結果的にサブプライムローンは世界金融危機を招くきっかけにもなりました。

「金利」って訳がわかりませんよね。ぼくみたいに数字に強くない人は、なにがどうなって、どうやって計算したらいいのか理解ができません。頭がパーンとなってもういいや、となる。
こっちはちゃんと返せるかどうかを心配しているのに、月々の返済がこれだけなんですと言ってカードローンを勧めてくる銀行の態度は、ぼくが銀行というものをいまいち信用しなくなった原因です。竹内さんの言うように、政府や銀行というところは、いかにお金を貸すか、そのためにいかに当面の支払いが少なくて済むかをアピールするようになっている。残価クレジットというのもそうですよね。そうやってお金を借りてでも使ってもらわないと、お金が回らない、景気が上向かないというのが政府の意向なのでしょう。それが一概に悪いのかどうか分かりませんが、政府にしろ銀行にしろ、あとあと何十年も先のことを見据えてそういう金利政策を行っているようには見えないのです。増加する空き家を放ったらかしておいて新築を勧めることで潤うのは一部だけだし、ずっとそうやってその場しのぎでやってきたから日本の住宅景観は美しくない。

だからマイホームを買うことに決めて、何十年ものローンを支払い続けることに決めたことに対して不安はあります。今後、自分の仕事にしろ、収入にしろ、金利にしろ、あるいは銀行という組織自体が存続していくのかどうかさえ、さっぱりわかりません。

だけど、ぼくが家を建てようと思った理由はそこじゃないです。

ぼくはべつに「売るため」に家を建てるわけじゃないですよ。家を資産にしたいわけでもない。いちばんの理由はやっぱり、子供たちの存在です。いちばん決断を迫られるのは、子供の年齢です。

あまりこういう言い方はしたくありませんが、子供の成長は待ったなしです。人生でやり直せないことなんかないと思いますが、子供の成長だけは待ってくれません。子供が子供でいてくれる時間はほんとうにあっというま。だから、子供が子供でいてくれるうちに、いろいろなことをしたい。いっぱい遊んだり、悪ふざけもしたい。庭で土をいじったり、植物に水をやったりもしたい。そうなるとやっぱり現在のアパート住まいでは苦しくなってくる。

なんのためにローンという対価を払うのかといったら、形としては家の資産価値に対してかもしれません。けど、ぼくの中では、ここで子供たちや妻と暮らすということ、家族でその時間と空間を共有する、そのことに対して(家はそのためのハコとして機能するし、この土地はそのための環境になる)だと思っています。

それと、BESSの家は「価値の落ちない住宅」じゃないです。そこに住んでいくことで、暮らしていくことで、「家」を作っていくというのが、BESSのオーナーに共通する考え方です。住宅の価値なんて誰が査定するのか知りませんが、自分の家の価値は自分がいちばんよくわかっているはずだし、そういう「家」を作っていきたいと思います。

Tweet about this on TwitterShare on FacebookShare on Google+Share on TumblrEmail this to someone

女性の社会進出と男性の育児進出の一体改革

Tweet about this on TwitterShare on FacebookShare on Google+Share on TumblrEmail this to someone

「女性の社会進出」がやたらと言われるようになった。

安倍政権はアベノミクス3本目の矢「成長戦略」の中で、「女性が輝く日本」をつくるための政策として「待機児童の解消」「職場復帰・再就職の支援」「女性役員・管理職の増加」を挙げている。

参考:女性が輝く日本へ – 首相官邸ホームページ

これ自体はいい。女性の社会進出を後押しするという方向性に異を唱えるつもりはない。実際のところ、若い世代ほど共働きがデフォルトだし、ぼくらの世代では女性が働くことはごく当たり前のこととして存在している。というか、共働きでないと食べていけないという現実もあるのだけれども。

自己実現のために社会に出たい女性と、金銭的な問題で稼がなければならない女性のどちらも「女性の社会進出」で一括りにされるのは無理があるし、多様な働き方と一言で言っても、その辺りの感覚の差異もありそうだが、それはひとまず置いておく。いずれにしても、安倍政権が掲げる「待機児童の解消」「職場復帰・再就職の支援」「女性役員・管理職の増加」がもし実現したならば、それはかなり喜ばしいことであると思う。

ただし、個々の具体的政策がはたして本当に実現できるのかというと疑わしい。首相官邸「女性が輝く日本へ」に掲載されているのは、清く正しい言葉ばかりだけれども、これは女性票に対するリップサービスであることを差し引いて考えておいたほうがいい。

4月19日の「成長戦略スピーチ」の中で、安倍首相が具体的政策目標として示した内容は以下の通り(こちらより引用)。

  • 2020年の25歳~44歳の女性就業率を73%にする(2012年68%)
  • 「3年間抱っこし放題」で育児休業期間を子供が3歳になるまで延長/その後の職場復帰を支援
  • 2020年の第1子出産前後の女性の継続就業率を55%にする(2010年38%)
  • 2020年の男性の育児休業取得率を13%にする(2011年2.63%)
  • 指導的地位に占める女性の割合を2020年までに30%程度にする
  • 2017年度までに約40万人分の保育の受け皿を整備し待機児童解消を目指す(※中期目標として2014年度で約20万人分の保育の受け皿を整備する)

これほとんどが、政府がどうのこうのいうよりも、経営者側の企業努力に左右される話ばかり。第1子出産前後の継続就業率も、男性の育児休業取得も、女性の役員割合も、会社側の理解が無ければスタートしない。法的な義務という形ではなく、自主的にお願いすると首相は語っているが、大きな企業がいままでの慣習をそう簡単に変えられるかというと甚だ疑問である。

女性就業率を増やすのはいい。だけども、職場での女性の待遇改善がなされなければ、いったい何のために働くのかわからなくなる。企業側は、安くて取り替えの利く労働者が増えてくれれば利益率が増えるので、フレキシブルな「女性の社会進出」に対しては理解を示すだろう。けれども、指導的地位に占める女性の割合とか、男性の育児休業など、経営者側にとってリスクを払わなければならないことに対しては難色を示すはずだ。資本主義のレールに乗っかっていれば、そういう流れになるのは自然の理である。そこのところのストッパーとして(社会扶助)、また潤滑油として(成長戦略)の役割を政府は担うべきなのだが、はたして前者はなおざりになっていないだろうか。

先日政府の産業競争力会において、待機児童解消の手段として、不足する保育士を確保するために「准保育士」なる資格制度を導入することが提案されたという(参考)。主婦層の働く機会を増やすとともに、保育所の質の向上させることがねらいだという。これがなぜ保育の質の向上につながるのかは全くわからないが、主婦層の働く機会を増やすという狙いは当たってる。低賃金でフレキシブルに働く准保育士が増えれば、子供を預ける側にとっても低料金で融通の利く時間に預けることができるというメリットがある。一見よさげに見えるが、これは驚くほど経営者側からの目線であり、これが政府案として検討されることに不安を覚える。なぜか。

おそらく、ある程度子育てが落ち着いて、子供を小中学校に送り出して家に居る主婦を掘り起こそうという考えだろう。子育てしてきたんだから、子供をみるぐらいはできるだろうと。スーツを着て会議室に座ったおじさんたちが考えそうなことだ。子育てを、週末の余興か何かだと思ってるんじゃないか。だから現時点でも保育士の待遇は驚くほど低いのに、その上さらに准保育士というお手軽なものを作ろうとしている。はっきり言ってそれは「保育」を舐めている。現場ではたらいている保育士を舐めている。

子供の命と育ちを預かる仕事なのだ。保育園の先生方はほんとうにすごいと、いつも頭がさがる思いで子供を預けている親からしてみれば、そんなちょいちょいと簡単に預けられる制度を作られても困る。なによりこの手の話では、子供の育ちにとってどうなのかという視点が語られることがあまりに少なすぎる。待機児童を解消するのはいい。だけども、子供の視点からの保育が語られなければ、いったい何のために預けるのかわからなくなる。

待機児童を解消する、すなわち子供の預け先を確保するためには、保育士が足りないという。そのためにはまず他業種と比べてもずいぶん低い水準にある保育士の待遇を改善するのが先だろう。子供の命を預かるという責任の重い仕事であるにも関わらず手取りが月十数万円では、よほど子供が好きでなければやってられない。実際に、待遇面での問題で保育士の離職が多いという話を聞く(厚労省の賃金構造基本統計調査(11年度)によれば、保育士の月給は全職業の平均より10万円強少なく、平均勤続年数は8.4年と全職業平均より3.5年短い)。子供を預ける先の先生方には活き活きとしてもらいたい、子供にはそういう環境で遊んでほしいというのは親の願いだ。そのために先生方に身を削ってもらうのではなく、もっと働き甲斐のある職場にしていただきたい。そしてそれは政府にしかできない仕事なのだ。しかし、そちらの政府案は尻すぼみだ。そりゃそうだ、社会福祉に公的資金を投入する財源が必要になるわけだから。

准保育士という制度によって、低料金での保育が実現したとする。そもそもなぜ低料金で預けなければならないのか。言うまでもないが、働いて稼いだ分のお金を保育料で取られたら意味がない。しかし笑えない現実として、それに近い状況が多くある。シングルマザーの半数以上が非正規雇用、平均収入は181万円だという。准保育士として働く女性はいうまでもなく低賃金になる。そのおかげで、低料金で子供を預けられるようになるかもしれないが、そういう世帯が高給取りの仕事に就けるとは考えづらい。「女性の待遇改善」がなされない限りは、働いても働いても生活はラクにならないワーキングプアが連鎖するだけになる。

女性就業率を増やすのはいい。だけども、職場での女性の待遇改善がなされなければ、いったい何のために働くのかわからなくなる。ワーキンプアを増やしたって意味が無い。それでは本末転倒なのだ。

§

・・・続きます。続きは後日更新。

Tweet about this on TwitterShare on FacebookShare on Google+Share on TumblrEmail this to someone

スーパーカーが残した奇跡的な一枚『Futurama』

Tweet about this on TwitterShare on FacebookShare on Google+Share on TumblrEmail this to someone

わたしも38歳になったんですけどね、こういうの聴くといまだにときめいちゃいますね。まさか自分が二児の父になるなんて思ってもいなかった25歳の頃に愛聴していた同世代バンド、スーパーカーが残した奇跡的な一枚『Futurama』。

Futurama
著者 : スーパーカー
キューンミュージック
発売日 : 2000-11-21

音楽的な完成度という点では、次作『HIGHVISION』や『ANSWER』のほうが優れていると思うし、とくに『HIGHVISION』は傑作という名にふさわしい風格を漂わせている。なのだけれども、本作『Futurama』だけが持っている「キラキラ感」は、いまだにぼくの心を捉えて離さない。とくに好きなのは、「Karma」から「FAIRWAY」への流れといったらジャンプしてそのまま飛んでいきそうになるほど。スーパーカーというバンドが電子音との化学反応を取り込んで“大化け”していく刹那の、過渡期ならではの、未完成であるがゆえの、「ここから何かが始まる」という予感に満ちた、フレッシュな蒼い果汁が、全16品というボリュームにもかかわらず、あっというまに生絞り。後味さわやか。もう一杯おかわり!したくなる。(ふしぎなことに、『HIGHVISION』は満足度は高いのだけれども、満腹でおかわりしたくはならない。)

彼らはこの作品で見せた音楽的進化のポジションに立ち止まらなかった。次々と貪欲に音楽的な進化を続けていった。まさにこの作品の質感である「ここから何かが始まる」という予感を体現していったのだ。一般的に次作『HIGHVISION』が頂点だと云われるし、ぼくもそう思う。当時はいまいちだなと思ってあまり聴かずにいた最後のアルバム『ANSWER』を昨日聴いてみたら、じんわりとなかなかよかった。残念ながらバンドは解散してしまった。

メンバーの中心人物であったナカコーはバンド解散後もさまざまな名義で精力的に作品をリリースしている。つい先日、初の本人名義でアルバムを出した(アルバム『Masterpeace』特設サイトにて試聴可能)。相変わらずこの人がつくる楽曲はぼくの琴線にひっかかる。

25歳の世間知らずだったぼくは38歳になった。相変わらず世間のことはよく知らないけれども、結婚して、子供もできた。いわゆる父親という立場になったが、その責務を果たしているかどうかはわからない。いまの職場に就いてもう10年以上になる。青春ソングに胸を焦がすような年でも立場でもない。

残念ながらスーパーカーは解散してしまった。なにかと再結成がブームだけど、彼らが「あのころ」の音を鳴らすことはもうないだろう。彼らには彼らがいま鳴らすべき音がある。人生は続く。

音楽は、その刹那の音を刻む。記録する。だから、いい。
写真は、その瞬間を切り取る。記録する。だから、いい。
中年のオッサンになってスーパーカーの「あのころ」の音楽にときめいちゃうように、じじいになったら子供たちの「あのころ」の写真を眺めて眺めてきゅんきゅんしちゃうんだろう。それもいいと思うような年になった。「現在」を生きることと、「思い出」を生きることと、そんなに違いがあるのだろうか。

いましか鳴らすことができない音というものがある。というか、ほんとうはすべての音がそうなのだろう(けれども、テンプレートのような音楽が増えた気がする)。
いましか書くことができない文章というものがある。というか、ほんとうはすべてのテキストがそうなのだろう(けれども、テンプレートのような文章が増えた気がする)。

というわけでぼちぼちブログも再開しようと思う。

Tweet about this on TwitterShare on FacebookShare on Google+Share on TumblrEmail this to someone

木村カエラ『ROCK』

Tweet about this on TwitterShare on FacebookShare on Google+Share on TumblrEmail this to someone

たのしい!たのしい!たのしい!

音楽って、楽しくて、うきうきわくわくさせてくれるものだと思い出させてくれる。木村カエラのプライベートレーベル ELA 第一弾リリースとなる本作は、彼女自身が影響を受けたという60年代~80年代の洋楽をカヴァーしたアルバム。

img_19
著者 : 木村カエラ
ビクターエンタテインメント
発売日 : 2013-10-29

a-haから始まり、シンディ・ローパー、クイーン、ベルベット・アンダーグラウンド、キンクス、ザ・フー、カーペンターズ、ビースティー・ボーイズなどなど、音楽好きなら誰もが知っているような、あるいはアーティスト名を知らなくてもどこかで聴いたことがあるようなヒット曲ばかり。1曲毎に様々なアーティストが客演しているコラボレーションアルバムでもある。

特設サイトにて、それぞれの楽曲およびコラボアーティストについての解説が詳しく載っている。レコーディング風景を収録した動画や試聴もあり、このサイト自体が楽しいので是非見てみて。
木村カエラ Collaboration Cover Album 『ROCK』 – ELA MUSIC

こちらはアルバムからの3曲をつないだPV。

ふつう、これだけヒット曲ばかりを集めると逆にもっさりしてつまらなくなってしまいがちだったりする。ましてや原曲のイメージを覆すようなとんがったアレンジは殆どなく、王道的なカヴァーが中心だ。しかし、ひとくせある様々なアーティストたちとコラボレーションすることで、バラエティに富み、エッジの利いた締まった感じになっている。とても気持ちいい。

なにより木村カエラの歌声がいい。とても気持ちいい。
ほんとうにこの曲が好きなんだろうなというのが伝わってくる。音楽って、楽しくて、うきうきわくわくさせてくれるものだと思い出させてくれるのだ。はじめてロックを聴いた時のどきどき。そこからロック史を遡っていわゆる名盤と云われる音源を自分なりに発掘していくたのしさ。音楽のつながりを知るよろこび。
彼女の天真爛漫な歌声を聴いていると、そんなふうに少年のような感覚で胸を躍らせながら音楽に接したくなるのだ。ここで客演しているアーティストたちもきっとそうだったのではないだろうか。だからこんなに「たのしい」アルバムになったのでは。木村カエラというアーティストの魅力って、おそらくそこにあるんじゃないかと(彼女の他のアルバムを聴いたことがないので早合点かもしれないけれども)思った。才能のあるところに人が集まるというか、人が集まりたくなる才能(こういう感じ?)。それって、打算よりも先にまず好きなことを好きにやってるからなんだと思う。音楽は時代を超える。世代を超える。人をつなぐ。

自宅のリビングのスピーカーから、シンディ・ローパーのカヴァー「Girls Just Want To Have Fun」が流れた瞬間、1歳半の娘が小さなおしりをぷりぷり揺らしながら体を動かし始めた。4歳の息子はおもちゃの太鼓を叩く。めちゃくちゃ愛らしくて目尻が下がる。音楽って、ほんと楽しい。生きてることすら楽しくなってくる。音楽は時代を超える。世代を超える。人をつなぐ。とてもシンプルな原体験だ。

『ROCK』に収録されている曲が気に入ったら、オリジナルも聴いてみよう。きっと音楽のたのしさがまた広がる。ぼくはこのアルバムでN’夙川BOYSやPredawn、CSSといったアーティストをはじめて知ったし、「You Really Got Me」のギターリフに痺れて民生のニューアルバムを試聴し感動した。音楽はつながる。下記にリンクを貼っておくので参考になれば。

木村カエラ『ROCK』収録曲
01. Take On Me / a-ha(木村カエラ xxx 岡村靖幸)
02. Girls Just Want To Have Fun / Cyndi Lauper(木村カエラ xxx N’夙川BOYS)
03. FUNKYTOWN / Lipps, Inc.(木村カエラ xxx 石野卓球)
04. Two Of Hearts / Stacey Q(木村カエラ xxx Chara)
05. Heart Of Glass / Blondie(木村カエラ xxx チャットモンチー)
06. Crazy Little Thing Called Love / Queen(木村カエラ xxx 斉藤和義)
07. SUNDAY MORNING / The Velvet Underground(木村カエラ xxx 細野晴臣)
08. You Really Got Me / The Kinks(木村カエラ xxx 奥田民生)
09. Fight For Your Right To Party / Beastie Boys(木村カエラ xxx CSS)
10. SWEET DREAMS (ARE MADE OF THIS) / Eurythmics(木村カエラ xxx POP ETC)
11. MY GENERATION / The Who(木村カエラ xxx 岸田繁 fromくるり)
12. RAINY DAYS AND MONDAYS / Carpenters(木村カエラ xxx Predawn)

Continue reading

Tweet about this on TwitterShare on FacebookShare on Google+Share on TumblrEmail this to someone

マイケル・ムーア『キャピタリズム』

Tweet about this on TwitterShare on FacebookShare on Google+Share on TumblrEmail this to someone

なんか既視感があるなあと思ったら、前にもいちど借りていた。そのことを忘れて自然に手が伸びたのは、時代の要請かもしれない。アメリカに遅れること数年、ここ日本でも現在、いわゆる「リベラル派」のトレンドは、資本主義への懐疑的視点にある。地球上の資源には限りがあり、少子高齢化が進み労働人口が減りゆく中で、先進国が永遠に経済成長し続けることは可能なのか?社会保障は持続可能なのか?自由競争原理によって市場が淘汰されることで安価で良質なサービスが提供されていく一方で、安価で良質なサービスを提供するために搾取され犠牲になっている人たちがいるのではないか?グローバル企業の台頭で、私たちの生活はほんとうに豊かになるのか?私たちの消費行動ひとつひとつが、資本主義の暴走に加担しているのではないか?

いま日本でも、都市に就職することを避け、里山で農業を始める若者が増えているのは、巨大市場の中で自分が「消費者」という記号に取り込まれるのを忌避する本能的行動だと思う。かつて、若者がチャラチャラするのは、特定のイデオロギーに取り込まれないための身体的知恵であったように。

マイケル・ムーア『キャピタリズム』が公開されたのは2009年。主にそこから数年前のアメリカのすがたが描かれている。

51u1xYW+09L
著者 : マイケル・ムーア
ジェネオン・ユニバーサル
発売日 : 2010-05-26

「資本主義こそが、これまでアメリカを豊かにしてきた、そしてこれからも豊かにする最善の道である」と、当時の大統領ジョージ・W・ブッシュが語るシーン。彼の言葉が思い描くような、ウォール街の大胆な「規制緩和」が、どのような結果をもたらしたかはすでに歴史が示している。サブプライムローンに端を発する世界金融危機が起こったのが2007~08年。低所得者層が夢見たマイホームは、国民の税金によって救済された銀行により、あっという間に差し押さえられた。

1%の富裕層が、95%の層全ての所得を足したよりも多くの富を所有しているという指摘は、いまではよく耳にする。Occupy Wall Street(ウォール街を占拠せよ)運動とは、まさしく文字通りウォール街(1%)に対する市民(99%)の声であった。民主主義を押しつぶそうとする資本主義の暴走に対する、民主主義を守ろうとする、実践しようとするレジスタンスであった(参考)。

アメリカの圧倒的な格差社会は、ジャーナリストの堤未果氏によるベストセラー『貧困大陸』シリーズでも克明に描かれている。日本とアメリカの関係を語る上で、このシリーズは必ず読んでおかなければならない一冊だと思う。

彼女が同書でレポートした「庶民にとってのアメリカ」が、『キャピタリズム』では現実の映像として写される。

銀行により家財を差し押さえられる現場。実際に差し押さえの現場で作業を行うのもまた労働者であり、なんて酷いことをするのという声に対し、彼らは彼らにも自分の生活があるのだと言う。ムーアの父親がかつて勤めていたというデトロイトGMの工場跡地は、「豊かなアメリカ」の現在の姿を象徴しているかのように寂寥とした風景に変わっている。花形職業というイメージのある飛行機のパイロットの現実は、バイトや小遣い稼ぎをしなければ生活ができない程の待遇であるという。彼らは空を飛ぶのが好きだから続けてはいるが、いまのままでは安全性が確保されるはずもないと嘆く。もちろんこれも自由市場が招いた価格競争の行く末。民営化の波は刑務所にも及ぶ。外観の見た目がいかにもクリーンで子供に優しそうな民間の少年院「PAチャイルドケア」では、「教師に暴言を吐いた」「家庭内で皿を投げた」等という理由で連れてこられた少年たちに対して判事はあらかじめ有罪が決められているかのように説教する。受刑者が多いほど儲かる仕組みになっているため、房を空けないように刑期が延長されることもあるという。それも法的手続なしで。大手企業では末端の従業員にまで生命保険をかけている。保険金の受取人は企業側だ。長年ウォルマートに勤務していた男性は、同じく同社でパートをしていた妻を若くして亡くしてしまう。会社が守ってくれると信じていた男性に残されたのは、10万ドルの医療費とふたりの子供だけだった。ウォルマートは彼の妻の死によって8万ドルの保険金を手にしている。社員が死亡すると儲かる。企業にとっては、下りる保険金の額が高くなる“若い女性”ほど、儲かるという理屈になる。

アメリカの、行き過ぎた資本主義が招く強欲、冷酷、非人間的な「現実」は、ここでは書ききれないほどだ。『キャピタリズム』や『貧困大陸』ではその一端を垣間みることができる。胸くそが悪くなるような「現実」ばかりで、そのむかし日本人が憧れた「自由と平等の国アメリカ」は、もうそこには無い。できれば直視したくないと思ってしまうだろう。

『キャピタリズム』も『貧困大陸』も、遠いアメリカの出来事を描いた作品ではない。これらの作品が描く「庶民にとってのアメリカ」の現在のすがたを知って、「アメリカって怖いな~」で終わってしまったらちょっと残念だ。日米安保もTPPもぼくたちの生活とすべてつながっている話であるからだ。日本でも格安の航空券が手に入るようになった。長距離バスの事故により運転手の過酷な労働環境が明らかになったこともあった。刑務所を民営化するという話が出たこともあった。TPPでアメリカが欲しいのは自由な競争なんかじゃない。自国の99%を食いつぶしてしまったグローバル企業が新たな市場を必要としているということだ。

「資本主義こそが最善である」と規制緩和を推し進めたジョージ・W・ブッシュが、いかにも大根役者のように原稿を読むのが丸分かりであった白々しい「演説」を見て、うわあ、これ安倍首相そのものじゃんと思ってしまった。世界金融危機から5年、日本はアメリカの後追いをしている。ウォール街にて首相がドヤ顔で演説したアベノミクス。しかし「大胆な規制緩和」で喜ぶのは、金融市場だけである。「財政出動」で潤うのは大手ゼネコンだけである。いくら傀儡にすぎないとはいえ、ブッシュも安倍晋三も「1%」のための政治をしているのは明らかである。ぼくたち庶民は、いつか自分も「1%」に入れるかもしれない、努力すれば必ず報われる、夢はきっとかなう、と言い聞かされて育った。いまもどこかでそう思っているし、それが間違いだとは思わない。けれども「1%」側には、そんなつもりは毛頭ないのだ。そのことはきちんと認識しておく必要がある。

§

いままでの、資本主義 VS 社会主義という構図だけではものごとを説明しきれなくなっている。劇中に登場するキリスト教の司祭は、資本主義は民主主義に反すると語る。いまや、これは敬虔な宗教者だけの見解ではない。フランスの文化人類学者エマニュエル・トッドも同様の指摘をしているし、内田樹氏や平川克美氏など日本の有識者が世界のグローバル化についての考察を語るようになり、また彼らの著作が売れ始めたのはここ数年のことだ。同じことを感じている人が、同時多発的に増えているのだと思う。

はじめの話に戻るが、都市に就職することを避け、里山で農業を始める若者が増えているのは、巨大市場の中で自分が「消費者」という記号に取り込まれるのを忌避する本能的行動だと思う。行き過ぎた資本主義に対するアンチテーゼであり、自らの身体活動を通した自らの手の届く範囲でのレジスタンスだ。

§

ここに書いたような話は、世界的な潮流であり、数多くの識者が語っているし、多くの人が肌感覚として感じていることではないかと思う。ちょっとググれば、もっと詳しく書いてある記事はたくさん出てくる。それを超えるような見聞を持っているわけではないので、単なる印象論として、誰も指摘しないようなことも書いておく。

前回観た時は気にもとめなかったのだけれども、今回『キャピタリズム』を観て個人的に引っかかったのは、カーター元大統領の演説シーン。ほんの少し挿入されただけで、演説そのものが心に響いたというわけではないのだが、その後の大統領選でレーガンが圧勝、俳優出身のレーガンはテレビ映えのする「明るく強いアメリカ」を打ち出し、資本主義を推し進めたという経緯を知り、それまで名前しか知らなかったカーターのことが気になった。レーガンが圧勝し「明るく強いアメリカ」を打ち出したのは、カーター政権への反動ではないかと感じたからだ。

簡単にググったところによれば、人権を尊重し軍事費を削減したカーターの外交は弱腰外交と揶揄された。内政の失敗もあり、レーガンに大差で敗れ1期で失脚。「人権外交」を掲げたカーターは大統領としては実績を残せなかったが、退任後に積極的に平和的な外交活動にコミットし続け、ノーベル平和賞を受賞。「史上最強の元大統領」、「最初から『元大統領』ならよかったのに」と、賞賛と半ば皮肉をこめて国内外のマスコミに呼ばれた。

似てないだろうか?鳩山政権と。カーターの理想主義っぽいところやバッシングのされ方なんかが鳩山さんと似てるんじゃないかとすごく思った。政界引退後も平和活動にコミットしようとしている点も。それから、鳩山政権(民主党)への反動で、安倍政権(自民党)がネオリベ的な政策を推し進めている点も。日本はアメリカの後追いをしている。アメリカを知ることは、日本を知ることでもある。ジミー・カーターのことをもっと知りたいと思った。彼が何を主張し、アメリカ人は何を期待し、何に失望したのか。鳩山由起夫のことをもっと知りたいと思った。彼が何を主張し、日本人は何を期待し、何に失望したのか。

日本人は民主党に何を期待し、何に失望したのか。当の民主党自身がそれを総括できていない以上、4年前に票を投じた有権者自身がそれを顧みないといけない。ぼくは北欧の社会に憧れを抱いているが、日本ではそれは実現しないだろうと諦観もしている。じゃあ近づくことはできるだろうか。だとしたら、何をどう変えていけばいいのだろうか。そこを明確にできなければ、次世代にバトンを渡すことができない。

ムーアはこうも言っている。「1%にも99%にも等しく同じ一票の選挙権が与えられている。彼ら(1%)はそれを怖れている。」だからもっと成長できる(経済成長と人間的成長を敢えてダブらせたりして)と夢を見させるわけだ。しかし資源には限りがある。少子高齢化も解決していない。これから先進国が目指すべきは、成長戦略ではなく成熟戦略であると、ぼくも思う。行き過ぎた資本主義に疑問を抱くことは、資本主義を全面否定することではない。要はバランスの問題だ。かつてアメリカで反戦を訴えたヒッピーたち、ウォール街のOccupy Wall Streetに集まった人たち、そして里山に向かう若者たち。彼らが見ているものと、そう遠くない気がする。

Continue reading

Tweet about this on TwitterShare on FacebookShare on Google+Share on TumblrEmail this to someone

仮面ライダー鎧武(ガイム)のクリスマス

Tweet about this on TwitterShare on FacebookShare on Google+Share on TumblrEmail this to someone

まさかこの日が来るとはね。

うちの息子はクルマがほんとうに大好きで。1歳の頃は道路を走る自動車を見るだけで喜んでいたし、早起きした日は近所の始発バス停まで見学に行ったり(思い出)。バス→緊急車両→スポーツカーと、車種への興味が移るとともにトミカは増えていく一方だけど、ほほえましいもんだった。ディズニー映画『カーズ』シリーズも大好きで、カーズトミカは塗装がボロボロになるくらい飽きもせず遊んだ。

小さなミニカーを、小さい手ではさんで「ぶーぶー」と一生懸命にやる様子は、やっぱり可愛いです。年齢が上がるにつれ、「ぶーぶー」の速度がはやくなり、衝突は激しくなり、パトカーの逮捕が頻出するようになってきたけど、それでもやっぱりうちの息子はクルマが好きなんだなあと思ってた。男の子は「クルマ派」と「ヒーロー戦隊もの
派」に分かれるそうだけど、うちはクルマ派だよね、なんて安心してた。

いやですね、子供が生まれる以前から、夫婦ともに「ヒーローものはちょっとね…」という見解だったんです。だって、暑苦しいし、うっとおしいじゃないですか。絵に描いたような「正義の味方」っていう構図も、ひねくれ者のぼくとしてはなんだかなあで。ましてや、いやこれがいちばんの理由なんだけど、まあなんと言いますか、一緒に「戦う」のがめんどくさいじゃないですか。痛そうだし。

だから、たまにその手のテレビ番組を見せてもあまり興味を示さなかったという経緯もあり、うちの息子は「クルマ派」でほんとよかったねえ、なんて高を括っていた。

しかし。

来たんですよ、うちにも。あいつらが。

画像は東映より

断っておきますが、只今絶賛放映中の『仮面ライダー鎧武(ガイム)』も、『キョウリュウジャー』も、息子はテレビ放送を見ていません。前日の夜に「見るー」と言って意気込むも、当日になると「(悪者が怖いから)見ない」となり、本編はほとんど見ていないのです。

なのになぜ、うちにこいつらが上陸してきたのか。

おそらく保育園の影響かと。彼にもマブダチができたようなのです。朝、保育園に送り届ける親の身体からなかなか離れようとせずにぐずぐずしていた息子が、いまではお友だちの待つ教室へ振り返りもせずスタコラサッサと走っていくようになりました。毎日のように、チラシの裏紙で作った剣や手裏剣を持ち帰ってきます。毎日のように、お友だちと「戦いごっこ」をしているそうです。『キョウリュウジャー』や『鎧武』の名前が頻出するようになったのは、「戦いごっこ」を愛する彼らにしてみれば当然のことでしょう。

そんなわけで、見てもいない『鎧武』『キョウリュウジャー』に登場するアイテムについてあれこれ喋るようになるわけですが、こちとら番組を見ていないのでよく分かりません。「ブラック」や「ゴールド」の靴下、コンビニで売ってる「ロックシード」を買ったりしてお茶を濁していましたが、いよいよ逃れられないビッグイベントがやって来ます。世界中の大人たちが同じドッキリに参加する暮れのあの日です。

一ヶ月ほど前から、クレヨンでまるを付けたカタログを見える場所に飾り立て、毎日のようにそのポジションをチェックし、サンタさんがこれとこれをくれるんだと主張していた商品がこちら。

いやあ、まさかこの日が来るとは。こんな俗なものをこの俺が…。はじめは難色を示していた私(だって、一緒に「戦う」のがめんどくさいじゃないですか)ですが、しょうがねえなあと調べていくうちにだんだんおもしろくなってきました。

最近の仮面ライダーはカニやパイナップルを被ってるのかと目を丸くしていたアレが、カニの甲羅ではなくてオレンジであったこと。もはや仮面ライダーという面影はなく、戦国武将をイメージした新しいキャラもの(ライダー同士で戦う戦国時代だそうで)と考えたほうがよさそうなこと。果物をモチーフにした「ロックシード」をベルトにロックオンすることで、同じ果物をモチーフにした兜や鎧が装着され、ライダーに変身すること。そしてバンダイが販売する「ロックシード」には2種類あること。

すなわちコンビニ等で売られている「サウンド・ロックシード・シリーズ」とトイザらス(地方都市では玩具やと言えばもはやトイザらスしかありません)で売っている「DXロックシード・シリーズ」(参考)。なぜこんなに価格が違うのかと不思議でしたが、例の「ベルト」や「セイバー」に装着した際に、光と音が連動するものとしないものの違いだったようです。なんだか、とてもややこしいのです。

子供向け(というか親やじじばば向け)の抱き合わせ商法というか、はじめにアイテム販売ありきで番組が作られているという匂いがぷんぷんします。主人公の鎧武はすでに「オレンジ」と「パイナップル」。これから節操なく新しいロックシードがばんばん登場するわけです。おまけにこれ価格設定が高いですよ。トミカの可愛らしい価格に比べると、バンダイ恐るべし。

と、ぶーたれながら、それでもまあこれだけ欲しがってるんだから年に一度くらいいいだろうと意を決してサンタさんにお願いしました。ふしぎなもので、手配してしまうとだんだん好きになってくるんですね。今までにないタイプの仮面ライダーでなかなか良いじゃないかと。多彩なロックシードも、男子にありがちな収集癖をくすぐります。

そして何より、欲しかったモノを手にしたときの息子の表情。

「サンタさん来てくれたんだね」と目を輝かせる4歳児に、こちらがぐっとくる。前日まで「いい子にしてないとサンタじゃなくて妖怪が来るよ」と散々脅していたので尚更。
この日は、朝から晩までベルトを付けたり取ったり、ロックシードを何度も付け替えて、音とアクションを楽しんでおりました。いつのまにか操作も手慣れてきて、ひっきりなしに「ロォックオォン」だの「オォレェンジパァワォー」だの喧しいことこの上無しですが、まあ好きなだけやりたまえという気持ちになりました。

ちなみに武器を手にした彼、いつもより威勢の良い台詞を口走るようになりまして、ああ大きいクルマに乗って人が変わったように強気になったり、戦闘機に乗ってポーズを決めたりするのは男子の性なんだなと思ったことも書き留めておきます。戦闘機に乗ってポーズを決めて喜ぶ政治家の気持ち悪さって、軍国主義者うんぬんというよりも、4歳児と変わらないその幼児性にあるんじゃないかな。そういうのは子供のうちに卒業しておこうよ。

娘(1歳)にはキッチンが届きました。

こちらも一生懸命に遊ぶすがたは、めちゃくちゃ可愛いです。

イブの夜、息子からママにサプライズ的な告白があったそう。ぼくら夫婦にとっては非常に感慨深い出来事なのですが、これは夫婦だけの胸にしまっておくことにします。こうして家族4人でクリスマスを過ごすことができる幸せを噛み締めながら。

子供が二人になってから、その数倍くらい子育ては大変になりまして、出るのは愚痴ばかり。傍若無人な子供らに毎日イライラして怒りっぱなし。それでも、こういう日くらいはしみじみするのです。きっとどんな親だってそうでしょう。だからこの壮大なフィクションに世界掛かりで乗っかり続けるのです。

Merry Christmas, and I love my family.

Continue reading

Tweet about this on TwitterShare on FacebookShare on Google+Share on TumblrEmail this to someone

『総理の原稿』平田オリザ・松井孝治

Tweet about this on TwitterShare on FacebookShare on Google+Share on TumblrEmail this to someone

政治のことばが変わった。

2009年、民主党による政権交代でいちばん印象に残っていることだ。共感してくれる人はどれだけいるだろうか。政治の言葉が、ずっと身近になった。新しい内閣が発足したあの夏の夜、颯爽と壇上に上がる閣僚たちが、記者の質問をきちんと聞き(ある人はメモを取りながら)ひとつひとつ丁寧に答える映像をテレビで見ながら、「政治が変わる」という高揚感を妻とふたりで共有したことを、ぼくはいまでも覚えている。あのとき、たしかに国会では「新しい政治」が生まれようとしていた。民主党の議員の中には、そのような自覚を持った政治家が少なからずいたように思う。政治の言葉とともに、情報公開という面でもぼくたち有権者のほうに開かれていく感触があった。鳩山氏は、憲政史上初めて首相会見をオープン化した。閣僚会見も記者クラブだけでない完全オープン化へと向かっていた。「自民党政権下では貧困率を発表することが許されなかった。民主党政権になって出せるようになった。」という有識者の言もある(出典)。「情報公開」は民主党の党是でもあった。しかし残念ながら、憲政史上初とも言える国民自身の手による政権交代を成し遂げた、その国民自身のほうに、「新しい政治」と主体的に関わっていく自覚が足りなかったために、鳩山政権は程なく頓挫した。

民主党は、鳩山政権の瓦解とともに変質した。政治の言葉が、ふたたび官僚の言葉に支配された。いちどは身近に感じた政治の言葉が、また遠くなった。そのことを総括できなかった民主党執行部は、与党の座を失った。民主党の自滅により政権の座に返り咲いた自民党は、以前にも増して強権的な国会運営をするようになった。もちろん、政治の言葉が届いてくるわけはない。いまや、平気で嘘をつき、簡単に前言撤回することなど朝飯前である。

2013年7月の参院選。三宅洋平というミュージシャンが全国比例区で立候補した。彼の「唄う選挙演説」をYoutubeで見て、2009年の政権交代で感じたのと同じヴァイヴを感じた。ああ、この人は「政治の言葉」を変えようとしている。そう思った。彼がやろうとしていたのは、徹底的な「対話」だ。「政治をマツリゴトに」という彼の主張は、スーツを脱いで、新しい「政治の言葉」を一緒に紡いでいこうぜ、という意味だ。「お上にお任せ」ではなく、政治のことを「自分ごと」として。「俺も分かんねえことだらけだからさ、一緒に勉強していこうよ」と彼は言う。

§

人々の意識下にある「お上にお任せ」は根強い。民主党が崩壊した後の自民党への振れ幅をみていると、そう感じざるを得ない。民主党がダメだったからやっぱり自民党、なんて程度で選ばれたのだとしたら短絡的すぎる。そこには知的な逡巡がなにも無い。自民党にお灸を据える、民主党にお灸を据える、という程度の認識で政治に参加したつもりになっている、あるいは参加しないことで冷静なつもりでいる、意思を貫いたつもりでいるという態度からは、政治を前に進ませる土壌は生まれない。だけど仕方がない。戦後長いこと「お上にお任せ」でやってきた日本人のバックグラウンドはそういう文化的土壌なのだから。一度や二度の政権交代で簡単に意識が変わるわけがないのだ。

ぼく自身も、偉そうなことを言える立場にはない。ぼくも数年前まで完全なるノンポリ・無関心層だった。子供が生まれてはじめて政治のことが自分ごとだと知った。子供が生まれた時期と、政権交代の時期とが重なったのは、幸運だったのかもしれない。

特定秘密保護法案の強行採決に象徴される、暴力的とさえ言える現在の自民党による国会運営。衆人環視が無ければ、権力は必ず暴走する。真夜中の国会はそれを如実に示している。彼らが何をやろうとしているのか、分かっていながら、反対する声が上がっていながら、それを止める手だてが無い。自民党議員は「サイレントマジョリティの信任を得た」と言う。しかし、前回の選挙で自民党に投票した人たち、あるいは選挙に行かなかった人たちは、ほんとうにこうなることを望んでいたのだろうか?

アベノミクスでも生活水準は上がらず、秘密法案のマズさが露呈してくると、安倍政権の支持率は下がってくるだろう。選挙に行かずに「なんとなく」現政権を支持していた人たちは、べつに自民党という政党を支持しているわけじゃない。政治に無関心であるか諦観しているか忌避しているかだけだ。その時に、彼らがますます政治に失望し、忌避し、さらなる「サイレントマジョリティ」を形成するのかどうかがターニングポイントになる。であるならば、やるべきことはおのずと見えてくる。サイレントマジョリティとは、与党への全権委任状に他ならないのだということを、選挙に行かない人たちに知ってもらうこと。そして、秘密法案はまさにそのようにして強行されたのだということを理解してもらうことだ。つまりそれらを伝えることだ。

ただし、伝え方が難しい。同じ志向や嗜好の人が集まりやすいツイッターでいくら情報を拡散してもあまり意味がないだろう。それまで、選挙に行かなかった人、政治に関心の無かった人、政治の話題を忌避していた人に向けて言葉を発しないといけない。隣人に、自分の言葉で語らないといけない。そして、それがいちばん難しいのだ。

政治の話題に関して、多くの人はデリケートだ。政治「活動」や「運動」には、できれば近づきたくないと思っている。下手に政治のことを口にすれば、レッテルを貼られて終わりになりかねない。いままで、いわゆる「政治的」とされる人たちというのは、「定型的」な言葉を繰り出す人たちのことであった。ネトウヨは皆一様に同じ言葉を喋る。視点や思考はもとより、繰り出す言葉そのものがまったく均一的なのだ。どこかで仕入れた定型的な言葉を、政治の言葉と勘違いしているのだ。これは左翼にも言える。原理主義になるほど、教条的で定型的な言葉が並ぶようになり、思考も画一的になる。ノンポリは、そのことを敏感に嗅ぎ取って、忌避するのだ。レッテルを貼って、遠ざけるのだ。政治的に正しいとか正しくないとか、そういうことではない。言葉の使われ方、それ自体がメタ・メッセージを発しているということだ。

ぼくらが使うべき政治の言葉は「コロキアル」でなければならない。

§

鳩山内閣において、内閣官房参与として劇作家の平田オリザ氏が関わっていたと知り、なるほどと得心した。そりゃ政治の言葉が届くはずである。官僚的な文章にアレルギーのあるぼくでも理解できるはずである。
オリザ氏とともに総理演説のスピーチ、ツイッターやブログでの情報発信に取り組んだのは、「新しい公共」の生みの親でもある官房副長官(当時)の松井孝治氏。

本書『総理の原稿』は、その2人による「新しい政治の言葉を模索した266日の記録」である。

本書より

私たちが目指したのは、まさにコロキアルな政治の言葉を作り出すことだった。(P6)

「コロキアル」な言葉とは何か。「コロキアル」とは、「口語の」「日常会話の」という意味だ。なるほど、では日常的な、喋り言葉であればいいのだろうか。

「わかりやすい」言葉はたしかに好まれる。これを徹底的に突き詰めたのが、小泉純一郎氏だった。彼は「わかりやすい」フレーズで国民の心を掴んだ。「コロキアル」な言葉を使う政治家は、もてはやされる。小泉以降、ワンフレーズ・ポリティカルと呼ばれるような、単一フレーズが政治の言葉として多用されるようになった。

政治家の側だけではない。有権者の側も、たとえば「バラマキ」「政治とカネ」といったフレーズだけで、政治のことを「わかったつもり」になるようになった。それは流行の言葉を消費するだけの行為と変わらない。そうして、政治と自分の生活はますます乖離していくのだ。

平田オリザさんの言う「コロキアル」な言葉とは、単に「わかりやすい」フレーズという意味ではない。

本書より

私たちは、熱狂によって万人が興奮するような演説は避けたつもりだ。小泉元首相や、それを真似た現行の幾人かの自治体の首長たちがとったようなやり方ーー仮想敵を作り出し、それを徹底的に叩くことによって、大きな世論のうねりを現出しようとする方法はとらないように厳に自らを戒めた。
巻末に載せたいくつかの文章を見ていただければ、新政権としては意外なほど控えめで、提言型、呼びかけ型の演説となっていることがご理解いただけると思う。(P3)

鳩山内閣における総理原稿は、従来とは異なるプロセスで作成されていたそうだ。各省庁の官僚から提出される短冊をまとめ上げていくという、それまでのやり方を一新し、少数の官邸メンバーで原案を作るという方法で作られたという鳩山内閣の総理原稿は、なるほど、だから言葉が届いたのだ。オリザ氏の言葉を借りれば、「いろいろな人の手が入ると、文章はだんだんつまらなくなる」。

オリザ氏と松井氏の作った文案を初めて読んだ鳩山氏は、「国民生活の現場において、実は政治の役割は、それほど大きくないのかもしれません」というくだりを、とても気に入ったそうだ。いかにも鳩山氏らしい。(それが良いか悪いかはさておき、)こういうことを、総理として言える政治家はあまりいないのではないかと思う。やけに肩肘張って「がんばります」とか、口角泡をとばすような演説の暑苦しさに、嘘くささと空虚さを感じる人は少なくないのでは。それもまた「政治離れ」の一因ではないかと思う。

§

いま改めて、鳩山総理時代の原稿を読み返してみよう。

国民のさらなる勝利に向けて 2009/08/30

歴史的な総選挙の大勢判明後、8月30日の深夜に出された談話。ここでは、民主党の勝利というよりも、国民が85年ぶりの政権交代を勝ち取ったというトーンの文章になっている。「民主党や友党各党はもちろん、自民党、公明党に投票なさった皆さんも、誰かに頼まれたから入れるといったしがらみの一票ではなく、真剣に、日本の将来を考えて一票を投じていただいたのではないかと思います。」と、敗者を讃えるということを入れた点も新しいとオリザ氏は指摘する。もう一つは「経済だけでなく」ということを示した点。「戦前、日本は、軍事によって大きな力を持とうとしました。戦後は経済によって国を立て直し、国民は自信を回復しました。しかし、これからは、経済に加えて、環境、平和、文化などによって国際社会に貢献し、国際社会から信頼される国を作っていかなければなりません。」鳩山政権が一番やりたかったことが端的に表れているそうだ。

第173回国会における鳩山内閣総理大臣所信表明演説

これは10月26日、国会が召集されて最初の演説。いま改めて読むと泣けてくる。「あの暑い夏の総選挙の日から、すでに2ヶ月が経とうとしています」という詩的なイントロが印象的だが、これもオリザ氏の発案によるもの。内田樹氏はこれを「身体感覚に訴える表現」と評したらしい。全力で闘ったあの夏の日々を思い出させ、なおかつ敗者に対しても呼びかけるような演説を、というのがオリザ氏の意図だそうだ。所信表明演説とは、国民に鳩山内閣の方針をきちんと伝えるというのが目的であるが、それと同時に多くの議席を獲得した新人議員たちを感動させるスピーチにしようと、それであの冒頭部分が決まったという。こうして後日談として聞くとおもしろいが、あのイントロは、いち国民としても情感を呼び起こすものであった。

第174回国会における鳩山内閣総理大臣施政方針演説

これもまたイントロが印象的な演説。「いのちを、守りたい。」こんな言葉から始まる首相スピーチがあったでしょうか。「生まれくるいのち、そして、育ちゆくいのちを守りたい。若い夫婦が、経済的な負担を不安に思い、子どもを持つことをあきらめてしまう、そんな社会を変えていきたい。未来を担う子どもたちが、自らの無限の可能性を自由に追求していける、そんな社会を築いていかなければなりません。」字面で見ると当たり前のことであるように思えるが、動画で実際に鳩山氏が喋る映像を見直してみると、一国の首相がこのようなメッセージを発するということそれ自体のインパクトを感じる。泣きそうになるよこれ。

本書より

平田:「国民と対話がしたい」と政治家はよく言うけれども、そうじゃなくて「国民が対話している場に政治家が入っていく」というのが私たちのチームのキャッチフレーズでした。国民が政治に参加するのではなく、政治家がちゃんと社会に参加する、ということ。ここにコペルニクス的転回があった。対話の場をつくって、そこに政治家も入っていく。
松井:総理大臣は、もちろん国家ということも語らなければいけないけれども、鳩山内閣の演説の特徴は、国家だけではなく社会を語る。総理も一人の人間であり、社会の一人の参加者なので、そこにフラットに入っていってもらいたい。それは鳩山内閣特有のものでした。(P55)

政治とは、ぼくたちの生活に他ならない。「国民の生活が第一」というのも民主党の大きなテーマであった。いまでもあたまの傍らに置いておきたい、とてもいいコピーだと思う。自分の働き方や社会保障なんかが全然見えないままに、安全保障だけを声高に語るような肌感覚は、ぼくには理解できない。若い世代の一部が愛国的な言説に熱狂し、それが「政治的」だと勘違いするのは、優先順位のつけ方が生活実感と乖離しているからだと思う。仮想敵を叩くことで得られる陶酔感の一方で、自分の生活がどうなるかに考えが及んでいない。

ミュージシャンの七尾旅人さんが昨年、印象的なツイートをしていた。
「音楽的な言語で 政治やジャーナリズムの言語では語りきれないものを捉えて鳴らそう 単純化されたスローガンに陥らないように 音の波をかきわけて どんな立場の方にも会いに行ければ良い 音楽は誰も排除しない」
ああ、ぼくが音楽を聴く理由が、ここにあると思った。

オリザ氏が目指した「新しい政治の言葉」とは、「音楽的な言葉」に近づくということだったのではないだろうか。

§

オリザ氏の言う通り、鳩山内閣のスピーチは基本的に「呼びかける」ような演説であった。現在の安倍内閣と比べると、演説が発するメタ・メッセージの質が異なることがよくわかる。すなわち、鳩山内閣は「人の話を聞いてくれそう」であった。国民の側に下りてきて、政治を一緒につくっていこうというメッセージを感じた。安倍内閣が発するメタ・メッセージは「俺に任せろ」である。旧来の自民党的な密室政治をより一層強権的にしたような印象だ。鳩山内閣が醸し出すオープンな雰囲気と、安倍内閣のクローズドな雰囲気はきわめて対照的である。

ノンポリは、細かい政策の善し悪しはわからなくとも、そのメタ・メッセージを敏感に嗅ぎ取るのだ。少なくとも、数年前のぼくはそうだった。

いま政治に失望し、諦観し、忌避している人たちが、自民党のままでいいと思っているとはぼくは思わない。サイレントマジョリティの多くは、良心的な人たちであるだろうと思う。ただ、語るべき「政治の言葉」を持っていないだけだ。彼らがサイレントであるのは、「定型的」な政治の言葉以外で、政治を語ってくれる人がいないからだ。「定型的」な政治の言葉に、自らが回収されるのを恐れているのだ。その直感は正しいと思う。

そのような、正しい直感を備えたサイレントマジョリティに、コロキアルな政治の言葉を届けないといけない。民主主義の社会を望むならば、ぼくたちは政治的立場の異なる相手とも対話しないといけない。相手を論破するためではなく、どこが違ってどこまでが同じであるのかを確認するために。互いに妥協できる落とし所を探るために。そのためには、隣人に、自分の言葉で語らないといけない。政治の言葉とは、テレビや新聞やネットの中にあるような「定型的」な言葉ではなく、「自分の言葉」そのものなのだと思う。

§

内田樹氏は、「日本語は本質的にコロキアルなんで、ロジカルになりようがない」と言っている。これに対して、オリザ氏は「日本語はまだまだ近代化の途上にある」と述べている。

本書より

パスカルの書簡の中に、「ここからは哲学的な議論なので、ラテン語で書きます」という一文があると聞いたことがある。17世紀、まだフランス語では、哲学や政治の込み入った話はできなかったのだ。
ただ、英語やフランス語が、そこから150年、200年とかかって行った言語の近代化、国語の統一という難事業を、日本語は、たかだか4、50年で行ってしまった。当然、そこには、積み残し、取りこぼしがあったはずだ。(中略)言語の民主化とは、とりもなおさず、難しい政策論議でも「聞いてわかる」言葉で話すということだ。(P6~7)

2009年に、政治の言葉が変わったのは、偶然ではない。「言葉を変える」と意識して、具体的にそれに取り組んだ人たちがいたから、そうなったのである。この記録の書を読んで、そのことを知った。
残念ながら、オリザ氏と松井氏の取り組みは、志半ばにして「敗戦」となった。政治の言葉は、ふたたび官僚の作文に戻っていった。

本書より

いまも、永田町でや霞ヶ関では、あいかわらず日本語のようで日本語ではない奇怪な言語が飛び交っている。道は険しい。おそらく、新しい政治のための新しい日本語を作る仕事は、30年、50年とかかるだろう。(P8)

「政治の言葉」を変えるべきは、政治家の側だけではない。政治家が自分の言葉で喋っていないと憤る前に、自分はどうなのか、どこかで聞きかじったフレーズをなぞっているだけじゃないかどうかを反芻しよう。
ぼくたちが、テレビや新聞あるいはインターネットで情報を収集したり共有したりするのは、ある特定の「真実」を知るためでも、ある特定の「集団」を形成するためでもない。それらを通して「自分の言葉」を獲得するためなのだ。

鳩山スピーチは、鳩山由紀夫氏と平田オリザ氏、松井孝治氏らが邂逅することで生まれた。オリザ氏のような人物が、内閣官房参与として、政治の言葉を届ける側にまわって労力を注いだということは、あの暑い夏が生んだ一瞬の奇跡だったのかもしれない。そして、子供が生まれてはじめて政治のことをちゃんと考えるようになった時期に、定型的ではない、新しい政治の言葉を届けようとしていた政権の言葉に触れることができたのは、ぼくにとって幸運だったのかもしれない。

ぼくはロジカルな思考というものは、得意ではない。ただ、こうして思ったことをブログに書き連ねるという行為を数年間続けることで、いくらかは言語化できるようになった。ぜんぜんロジカルではないけれども、コロキアルであることと政治の言葉とがつながりつつある。もちろん、まだまだ近代化の途上であるが。

「自分の言葉」で政治を語る日本人がある一定数に達したとき、ほんとうの政治の季節は必ず到来する。ぼくはそう信じている。信じなければやってられない。

Continue reading

Tweet about this on TwitterShare on FacebookShare on Google+Share on TumblrEmail this to someone

特定秘密保護法案が可決されて思ったこと

Tweet about this on TwitterShare on FacebookShare on Google+Share on TumblrEmail this to someone

12月6日夜、特定秘密保護法案が参議院本会議で可決された。

拙速に採決を急ぎ、強行的な手法で法案を可決させた与党であるが、これだけ多くの著名人が反対を表明する法案が、かつてあったんだろうか。それこそ「有識者」の多くが反対している。

「特定秘密保護法案に反対する学者の会」は、わずか数日で3000名を超える学者の賛同を得た。3日に行われた記者会見では、様々な識者が同法案の問題点について語っている。内田樹さんのブログに全文書き起こしが掲載されているので一読されたい。

12月3日の「特定秘密保護法案に反対する学者の会」記者会見 – 内田樹の研究室
特定秘密保護法への学者の会からの抗議声明 – 内田樹の研究室

また、「特定秘密保護法案に反対する表現人の会」でも、数日で1万人を超える賛同者が集まった。ぼくもデザイナーとして賛同した。
高畑勲、山田洋次らの呼びかけで結成された「特定秘密保護法案に反対する映画人の会」には、宮崎駿、是枝裕和、吉永小百合、大竹しのぶら日本を代表する映画人の賛同が集まった。

条文はこちらから読める(特定秘密の保護に関する法律)。が、こういう官僚文章にアレルギーのあるぼくには、何を言わんとしているのかほとんど理解できない(ほんとに、生理的にダメなのだ)。条文を読まずに批判するのはおかしいと言う人もいるかもしれないが、だいたいそう言う人も読んでいないだろう。法律の素人である市民ひとりひとりがすべて条文を読み込む必要があるとは、ぼくは思わない。そのために専門家がいるわけだから。(だから、どの専門家が自分の肌感覚に合っているのかを普段から意識して観察し、信頼できる専門家を自分なりに心得ておく必要がある。)

はっきり言って、問題がありすぎてどこから説明したらいいのか途方にくれてしまうのだ。ぼくは、この法案の問題点を、論理的に、端的に他人に説明できるだけの頭脳も労力も持ち合わせていないので、各自で調べてみることをおすすめする。ちょっとググればいくらでも出てくる。

特定秘密保護法の問題点について、政治学教員の岡田憲治さんはこうまとめている。(出典
・特定秘密の指定について恣意的な運用が可能であること
・行政府の権限を無限に拡大する恐れがあること
・情報開示の方法と原則について明確な規定を持っていないこと
・第三者のチェックが周到に排除されていること
・条文の中に共謀罪とほぼ同等の規定がこっそり書き込まれていること
・「適性検査」という信じがたい人権侵害規定が含まれていること
・想定されている同盟国(米国)に対して無力なこと
・罰則規定が重すぎること

法律であるのに、定義が曖昧である(そのくせに罰則は重い)というのが、キモである。平川克美さんのツイートを引用する。

この法案のキモは、誰も指摘していませんが、一望監視システムと同じところにあります。この法案の不備が指摘されていますが、不備であればあるほど効果があるのです。実際に法適用される必要もない。ただ、法案があればよい。それだけで、誰もが疑心暗鬼になる。
法律というものは、常にその侵犯の最低ライン(マージナルライン)を明示することで成立します。時速40km制限は、侵犯の最低速度はここですよと示している。基本的人権は人間的な生活の最低ラインを示している。しかし、特定秘密保護法にはその最低ラインがないのです。権力にとって、これほどコストがかからずに、効果が大きい法律はないのです。
この法律はあちらがわからはこちら側が丸見えだが、こちら側からは鏡のように自分しか見えない。この非対称性がこの法律のキモだということです。(以上引用

特定秘密保護法が恐ろしいのは、それが権力側に都合よく利用されるという理由ももちろんあるが、「出る杭を打つ」というカオナシのような国民性と符号するからだ。自分はこんなに我慢している。だから我慢してない奴が許せない。他人に我慢を強要し、声を上げるものを全力で引きずり下ろそうとする。
警察国家というものは、国家権力による横暴だけではおそらく成立しない。誰もが疑心暗鬼になり、隣人を監視する社会、相互不信といった心象が広がったときに、監視社会は成立し得る。日本には、村八分という伝統もある。集団(多数派)に個が埋没したときに、いかに恐ろしい同調圧力が生まれるかは多くの人が少なからず経験として知っているはずだ。

§

法案の中身だけではなく、その可決までのプロセスにもこの法案の恐ろしさが表出している。というか、与党がいかにしてこの法案を可決させたかというその行為そのものが、この法案がいかにして運用されるかを物語ってる。

11月26日、特定秘密保護法案が衆議院で強行採決されてから、わずか10日あまりで参議院で強行採決されるまで、国会がいかにして運営されたか、嫌というほどツイッターでまわってきた。恐ろしい、おぞましいその現実を、嫌というほど知らされた。
往年の自民党世代である野中広務氏は「戦争の足音が聞こえてくる」と、秘密保護法案を批判している。いまの自民党は、往時の自民党ではない。「自民党」という括りや、右翼や左翼といったカビの生えた価値軸でものごとを見ようとすると本質は見えてこない。

12月4日、国会は徹夜で行われ、深夜3時、何の落ち度もない民主党籍の委員長2名が「野党の委員長なんて必要ない」という理由で、与党の賛成多数により解任された(2013.12.04-2013.12.05 真夜中の国会 – Togetter)。きわめて野蛮な、数の暴力に他ならない。集団(多数派)に個が埋没したときの横暴なる人の姿だ。議会の存在を否定するような、こんな国会を世界が見たら誰が日本を民主主義国家だと思うだろうか。野蛮な法案を野蛮なやり方で押し通す野蛮な国だとしか思えないだろう。

わざわざこんな深夜に委員長を解任するという暴挙。衆人環視が無ければ、権力は必ず暴走する。真夜中の国会はそれを如実に示している。彼らが何をやろうとしているのか、分かっていながら、反対する声が上がっていながら、それを止める手だてが無い。ほんとうにどうしようもない歴史の目撃者になってしまった。

正直に言って、こんな歴史の目撃者になんかなりたくなかった。生来めんどくさいことは嫌いな性質だ。しかし、知ってしまったからには目を背けられない。こんな異常な国会運営を強行する人たちに政権を与えてしまったのも我々なのだから。シニカルに構えていえれば事が過ぎ去るという時代はもう終わったのだ。

§

「特定秘密保護法」を、戦前の「治安維持法」をなぞらえる向きもある。ぼくも直感的に同じ匂い、相似性を感じる。あるいはアメリカの「愛国者法」と比較してもいいかもしれない。

政治社会学者の栗原彬氏は「監視されるべきなのは、行政府であるのに、逆に、市民が、とりわけ、異議申し立てをする市民が、取り締まりの対象になっていく」「これは現代の治安維持法です。治安立法なんですよ。ナチの全権委任法に限りなく近いんです。行政府が、これは特定秘密に触れているというふうに判断すれば、何でも取り締まりができる」と述べている(出典)。

治安維持法 1925年制定。28年の改正で最高刑が死刑に。41年の改正により予防拘禁(犯罪の恐れのある者を、犯行が行われる前に拘束し犯罪を未然に防ぐ)制度が導入。権力に従わせる法律として暴威をふるう。拷問による虐殺・獄死194人、獄中での病死1503人、逮捕・投獄者は数十万人。

1945年、治安維持法はGHQの指令により廃止された。逆に考えると、GHQの介入が無ければ存続していたのかもしれない。日本人には、秘密保護法のようなモノを望んでしまう体質が無意識のうちに潜んでいるのだろうか?

であるならば、稀代の悪法と云われる治安維持法がいかなるプロセスで成立し、どのように運用され、改正され、社会にどのような影響を与えたのか、その歴史を知ることに大きな意味がある。1979年生まれの若き学者、中澤俊輔氏による『治安維持法 ~なぜ政党政治は「悪法」を生んだか』は、まさに今読むべき本ではないかと思う。

同書のコピーより。「言論の自由を制限し、戦前の反体制派を弾圧した「稀代の悪法」。これが治安維持法のイメージである。しかし、その実態は十分理解されているだろうか。本書は政党の役割に注目し、立案から戦後への影響までを再検証する。1925年に治安維持法を成立させたのは、護憲三派の政党内閣だった。なぜ政党は自らを縛りかねない法律を生み、その後の拡大を許したのか。現代にも通じる、自由と民主主義をめぐる難問に向き合う。」

§

12月6日、参議院での採決についても記しておく。本会議に先立つ特別委員会での質疑を、ぼくはネット中継で見ていた。

共産党の議員や福島みずほさんはこういうとき本当に頼りになる。強度が違う。維新の議員はアリバイ作りのための質疑。議事録上では慎重意見ということになるだろうが、喋り方で分かる。(民主党・みんなの質疑は見れなかった)
その後、元自衛官の自民党議員による質疑。国民の不安、誤解やミスリードを払拭するために、説明していく必要があるんですよ、と森大臣に詰め寄る。森大臣は野党に対する答弁と違って、たいへん流暢に答える。これが絵に描いたような茶番でほんとうに気持ち悪かった。そうだそうだ、と拍手喝采するヒゲの隊長。
突如「石井浩郎くん」。立ち上がり、何の脈絡もなく委員長のもとに駆け寄る石井議員。複数の議員も詰めより場内は騒然。「ダメダメ」の声が響く。何が起こっているのか分からない。委員長の眼前で紙キレをピラピラさせる議員。なにこれ?と思う間もなく散会。ツイッターで知るまで、採決されたとは分からなかった。

後で動画をよく見たら、石井議員が委員長に駆け寄り場内騒然としている中で、ヒゲの隊長が自民党の議員に、立て立てとゼスチャーしていた。騒然として委員長の声も聞こえない中で、自民党の議員が立っていた。それに対する確認も何もなかったが、あれが「採決」ということなんだろう。驚いた。めちゃくちゃだ。「強行採決」というより「不意打ち」だ。学級会の多数決より酷い。

写真はthe guardianより

法案のマズさもさることながら、本当にやり方が汚い。圧倒的多数を誇るはずの与党が、こんな不意打ちみたいな汚いやり方をしないと通せない法案って何なんだろうか。こんなことして恥ずかしくないのだろうか。どこが「美しい国」なのか。立ち上がった自民党の議員は、これが「採決」ですと、胸を張って言えるのだろうか。

委員会議事録には、審議打ち切りの緊急動議も委員長による採決・可決の宣言もいっさい記録されていないそうだ(出典)。反対派・賛成派で受け取り方は異なれど、「強行採決」という言葉が独り歩きしている。しかしながら、「どうやって採決されたのか」「そもそも採決と言えるのか」が明らかになっていない現状ってすごくないか。国会がどのように運営されているのか、実はぼくはまるで知らないのだ。

同日夜、民主党は内閣不信任案、および森大臣に問責決議案を提出するが、他野党とのまとまりに欠けたこともあり時間稼ぎにもならなかった。こうして特定秘密保護法案は、参議院本会議でも強行採決され、可決された。

§

民主主義の発展や人権擁護に取り組む米財団「オープン・ソサエティー」は、特定秘密保護法が国家秘密の保護と開示に関する国際基準を「はるかに下回る」とし、「日本の一歩後退」を示すことになると懸念する声明を発表した。「21世紀に民主的な政府が検討した中で最悪の部類」とまで表現されている(出典)。

JNNの世論調査によれば、特定秘密保護法の国会審議について85%の人が十分ではなかったと考えている。同法の成立を「評価する」は28%、「評価しない」は57%。安倍内閣の支持率は54.6%だそうだ(出典)。

最低の法案が、最低のやり方で決められた。そう感じざるを得ない。

森雅子担当相は、「成立後は、あらゆる手段を使って必要性と懸念に対する説明を丁寧にしていきたい」と述べている。これから、多くの懸念はミスリードと認定され、報道は政府が示唆するような「正しい」伝え方をすることが求められるだろう。というか、採決前の質疑で元自衛官の自民党議員がそう言ってた。「報道機関にミスリードさせないようにする」。また同党の礒崎陽輔議員は、法案に反対するキャスターの意見を、中立義務違反であるとツイッターで述べている。反対デモはテロと本質的に変わらないと発言した石破幹事長も同じ体質である。

もう決まったんだから、いまさらイチャモンつけてんじゃねえよ。ネガティブなことばかり言いやがって。だったら対案を出せよ。そのように言いたくなる人も増えるだろう。それに対して萎縮する人も増えてくる。こんなこと言ったらミスリードになるんじゃないか、誠実な人であればあるほど発言を躊躇するようになる。そういった空気が醸成されることを、この法律は望んでいる。

これからは、抵抗することそれ自体が難しくなるということは覚悟しておかないといけないだろう。

§

後の自分のために、いま考えていることをもう少し噛み砕いて記録しておこう。

最近、自民党が強権的に事を推し進める際に自己正当化として用いるのが「サイレントマジョリティの信任を得た」という台詞だ。だけどこれは確かめようがない。なんせサイレントなんだから。あえて言うなら「高い支持率」がその根拠になる。しかしシングルイシューに的を絞れば、これは必ずしも当てはまらない。特定秘密法案に関しては、世論としても慎重論のほうが多かったはずだ。しかし与党は、「高い支持率」を、「サイレントマジョリティの信任を得た」と解釈して事を進める。

国会とはそういう理屈が通る場所であるということが今回痛烈に分かった。自民党の拙速で強引なやり方が発するメタ・メッセージは二つ。一つは、数に勝ればなんでもできるということ。もう一つは、反対意見はノイジーマイノリティとして片付けられるということ。

ところで、自民党の強権的なやり方の根拠となっている「高い支持率」であるが、前回の選挙で積極的に自民党に票を投じたのは約二割にすぎない。それで過半数を超える議席を得る圧勝となったのは、小選挙区制という選挙制度の問題である。これはよく理解しないといけない。なぜなら選挙制度を変え得るのも、選挙で選ばれた政治家であるからだ。たとえば、議員定数の削減という「身を切る」改革がどんな結果をもたらすか、言葉のイメージだけではなくきちんと想像しないといけない。比例区の定数を減らしたらますます少数意見は反映されにくくなる。「なんとなくよさそう」「やってくれそう」といったイメージだけで信任するのは無責任な大人だ。

ぼくがいちばん不可解なのは、二割の得票率でありながら、しかも個別の政策での支持は決して高くないのに、過半数を超えるという内閣支持率である。これはいったいどういうことなのか。
個別の政策についてはよく分からないけど、「なんとなくよさそう」「やってくれそう」だから支持されているという現象なのではないかと思う。とくに、選挙に行かなかった人たちが。二割の得票率で過半数の支持率とはそういうことだろう。

アベノミクスでも生活水準は上がらず、秘密法案のマズさが露呈してくると、安倍政権の支持率は下がってくる。選挙に行かずに「なんとなく」現政権を支持していた人たちは、べつに自民党を支持しているわけじゃない。政治に無関心であるか諦観しているか忌避しているかだけだ。その時に、彼らがますます政治に失望し、忌避し、さらなる「サイレントマジョリティ」を形成するのかどうかがターニングポイントになる。

であるならば、やるべきことはおのずと見えてくる。
サイレントマジョリティとは、与党への全権委任状に他ならないのだということを、選挙に行かない人たちに知ってもらうこと。そして、秘密法案はまさにそのようにして強行されたのだということを理解してもらうことだ。つまりそれらを伝えることだ。自分の言葉で。

数年前までぼくも完全なるノンポリ、無関心層だったので、そう思う。反対デモを「テロのようなもの」「嵐」と切り捨てる態度って、実はぼくらノンポリが共産党の人たちに向けていた視線(或いは泡沫候補に対する蔑視)そのままだったのだ。このことはよく反芻しよう。

自民党が今回の国会で見せた醜悪な姿は、集団(多数派)に埋没した時の個の姿だ。誰でもそうなり得る。民主主義を望むならば、ぼくたちは政治的立場の異なる相手とも対話しないといけない。相手を論破するためではなく、どこが違ってどこまでが同じであるのかを確認するために。互いに妥協できる落とし所を探るために。そのためには、ツイッターで定型的な言葉を拡散してもあまり意味がない。隣人に、自分の言葉で語らないといけない。だから今回起こったことと、それを通して自分が感じたことを、自分なりに覚えておくことはとても大事なのだ。

§

参議院での採決をめぐる攻防、反対デモの盛り上がりは、石破幹事長に「テロと本質的に変わらない」、安倍首相に「嵐」と言わしめるほどに大きなものであった。それはたしかに一時的な盛り上がりであったのかもしれない。けれども、こんな時に盛り上がらないでどうする。こんな時に平易を装うようなシニカルな態度にいったい何の意味があるのか。

特定秘密保護法(に限った話ではないが)に対する、いろいろな「人々の反応」を冷静に分析してみせるのは結構だが、いちばん大事なのは自分がどう感じるかだ。自分の問題なんだから。

特定秘密保護法に反対している人々は、反対「勢力」を拡大するために無関心層を懐柔して取り込もうとか、そういう「運動」としての反対活動には興味がないのではないかと思う。それよりも、ひとりひとりが自分の頭で、自分のこととしてこの法案のことを考える人が増えてほしかったのだ。意味も分からないまま「反対派」に多数を取り込むような行為は、たとえ短期的に効果のある行為であったとしても、長期的に考えると逆効果だ。自分の頭で考え、自分の身体で行動する日本人がひとりでも多く増えることこそが、民主主義の国をつくることにつながり、特定秘密保護法への「抵抗」になる。

今回デモに参加した人の多くは、「やむにやまれず」飛び出した人たちであると思う。デモに意味があるかないか、なんてしたり顔で見物することのほうが意味がない。國分功一郎氏によれば、「デモとは、もはや暴力に訴えかけなければ統制できないほどの群衆が街中に出現することである。その出現そのものが「いつまでも従っていると思うなよ」というメッセージである。テーマになっている事柄に参加者は深い理解を持たねばならないと主張する人はデモの本質を見誤っている。デモの本質は、その存在がメッセージになるという事実、メタ・メッセージ(「いつまでも従っていると思うなよ」)にこそある。このメタ・メッセージを突きつけることが重要なのだ。」(出典

奈良美智さんは、絵を描くときに下書きをしないそうだ。
奈良美智さんのツイートより

自分は下書きとかしないので、いっつもぶっつけ本番で描いていく。
何を描くかもわからず、何かが見えるまで、ただただ手を動かしていく。
途中はこんな感じで、何も見えない・・・

で、いっつもひとり叫ぶ 「あしたはどっちだ!?」

下書きのない真っ白なキャンパスに、筆を下ろすのは勇気がいる。だいたいの場合、どうしてやろうかと雑念が入り一筆目を躊躇してしまうからだ。一筆目をどう入れようかという雑念は、他人からどう見られるかというプレッシャーと表裏一体だったりする。そうするとますます怖くなる。下書きしたくなる。

明日がどっちに転ぶか分かっていたほうが人は安心できる。安心したい。下書きしたい。奈良さんはなぜ下書きしないのか。なぜ「あしたはどっちだ」と身悶えしながら手を動かし続けるのか。
「何を描くかもわからず、何も見えないまま、ただただ手を動かしていく」ことではじめて「何かが見えてくる」からだと思う。そしてそれは、下書きからは決して見えてこない何かなのだ。自分が思い描く「下書き」なんて、ものすごく了見の狭い思い込みの世界にすぎない。奈良さんはそのことを知っているから下書きしないのだと思う。現実の世界は、明日がどっちに転ぶのか誰にも分からない。ただ手を動かすしかないのだ。

デモに行く人は、用意周到に下書きをしていってるわけではない。明日がどっちに転ぶのか分からないことを承知の上で、それでもやむにやまれず飛び出しただけだ。手を動かしただけだ。意味や結果ではなく、「群衆が街中に出現すること」それ自体がデモの本質なのだ。そうすることで初めて見えてくる世界というものがある。「行動」と「知」は地下水脈でつながっている。

アーティストがなぜ作品をつくるのかというと、「そうせずにはいられない」からだ。商業的価値軸では判断できないし、言葉で簡単に説明できるならそもそも作品なんかつくりはしない。「そうせずにはいられない」から街頭のデモに飛び出した人たちのことを、「何の意味もねーよw」などと嘲笑する行為は慎みたい。それは自分の尺度での「意味」でしかない。未だキャンパスに描かれていない「意味」もあるのだ。

子供の絵の何がいいかって、それはもちろん、下書きが無いから。下書きから自由だ、と言ったほうがいいかな。ぼくはそういう絵を見てるとわくわくする。

§

特定秘密保護法が可決された翌日、ぼくのツイッターのタイムラインは不思議なほど穏やかなトーンであった。もちろん与党の理不尽なやり方や、同法に対する懸念は相変わらずある。けれども、それらは怒りに任せてというよりもっと冷静なトーンであった。施行されるまでは1年あるし、反対世論はこれから高まるだろう。3年後には衆議院選挙もある。

悪夢のような「真夜中の国会」実況中継ツイートが流れる深夜のスマホの画面の中で、作家の佐々木中さんのツイートに胸が沁みたことを思い出す。

佐々木中さんのツイートより

みんな、おやすみ。明日は闘争だ。よく寝て、英気を養って、あいつらを叩き潰すんだ。あいつらをあの場所に居させたのは俺たちだ。なら潰すことだってできるはずだ。子どもたちが自由な世界で遊ぶ夢を、今夜は見よう。われわれにも夢がある。

子どもたちが自由な世界で遊ぶ夢ーーー。おなじ夢を見ている人がここにもいる。そう思うだけで少し救われた。デモに参加するのは、おなじ思いを抱く人たちがここにもいるということを確認するためでもあるだろう。

ほんとうにどうしようもない歴史の目撃者になってしまった。それでも、ぼくたち大人は、来るべき子供たちに希望を紡がなければならない。どうしようもない時代だからこそ、意識的にそうしなければ、数の暴力であっというまに消されていく時代だ。この両手に、子供たちの小さなぬくもりを感じている、そのぬくもりを知ってる大人たちは、いま希望の灯を点けないといけない。それぞれの持ち場で、それぞれ自分の言葉で、希望の灯を紡いでいかないといけない。そう思った。

平田オリザ氏の言葉を借りれば、日本はレジスタンスの時代に入ったのだ(出典)。レジスタンスは常にアンダーグラウンドでしか有り得ない。だから、意識的に希望の火を紡がなければならない。アンダーグラウンドであることと、レジスタンスであること、そしてポジティブであることは矛盾しない。やれることをやればいい。疲れたら休めばいい。

和合亮一さんのツイートより

真の 政治の季節が 必ず到来する
それまで あきらめずに したたかに しなやかに

岡田憲治さんの記事も紹介しておく。とてもいい文章だと思う。

祭りの後にするべきことについて ~大切なこと3つ~

そう、しなやかに。鋼のように。

§

特定秘密保護法案が可決された翌日、ぼくは久しぶりに実家に足を運び、これからについて両親と話をした(実はこれがいちばん苦手なのである)。それから家に戻り、妻が作った美味しい料理を食べて、少しだけビールを飲んで、家族でくだらないテレビ(エンタの神様)を見て笑った。じわじわと幸せを感じた。

本を読み、音楽を聴き、映画を観る。ごはんを食べ、たまにビールを飲む。子供らと遊ぶ。家族と話をする。仕事は自分からやっていく。やるべきことをやる。そんな気分になった。遅ればせながら。

シニカルに構えていれば事が過ぎ去るという時代は終わった。明日をつくるのも自分でしかないのだ。今までよりもずっと楽しんでやるという覚悟(やけくそじゃないよ)が必要だ。レジスタンスはポジティブなほうがいい。

岡田憲治さんの言うように、「SNSは、日々の記録をデータベース化させるのに絶好のメディアであり、記憶装置である」。この記事は、ここ数日の自分のツイートをまとめたものだ。もうすでに忘れていたようなこともある。だからこうして、ここに記しておく。

Continue reading

Tweet about this on TwitterShare on FacebookShare on Google+Share on TumblrEmail this to someone

デトロイトの破綻とデトロイト・テクノの音色

Tweet about this on TwitterShare on FacebookShare on Google+Share on TumblrEmail this to someone

2013年7月、デトロイト市が財政破綻した。

§

ミシガン州を本拠地とするフォード、GM(ゼネラルモーターズ)、クライスラーという自動車産業を代表する企業(いわゆるビッグ3)の隆盛と共に、かつては工業都市として全米第4の都市と言われたデトロイト。全盛期には人口180万を超え、その半数が自動車産業に関わっていたという。1950年代には、まさにアメリカンドリームを象徴する都市だった。

しかし、1967年に多数の死傷者を出したデトロイト暴動により白人の郊外への脱出が増加。また70年代頃から日本車の台頭により自動車産業が深刻な打撃を受けると、企業は社員を大量解雇、下請などの関連企業は倒産が相次ぎ、市街地の人口流出が深刻となった。同時に、ダウンタウンには浮浪者が溢れ、治安悪化が進んだ。
以来、デトロイト市内では人口の8割を黒人が占める。自動車産業関連の職を求めて南部から移住した人々である。一方、白人の多くは郊外に住んでおり、郊外の衛星都市では人口の9割以上を白人が占めている。郊外と市内の生活圏は分断されており、ダウンタウン周辺の空洞化は続いている。(以上、Wikipedia参考)

2009年、同市に本社を置くGMが経営破綻。同年クライスラーも破綻した。自動車産業の空洞化により、デトロイトの都市基盤はいよいよ崩壊していく。180万あった人口は現在68万人にまで減少。人口の減少により、この10年間だけでも市の所得税からの収入は3分の1に。収入の約40%は退職給付の支払いと債務の返済に、過去10年に発行した債務のほとんどは年金拠出金に充てられた(このレガシーコスト問題については後述する)。不動産価格は暴落し、見捨てられた家は市に没収されたまま朽ちていくばかり。廃家屋は7万8000軒にも上り、固定資産税からの歳入を大幅に減らすと共に治安はますます悪化。管理の行き届かない公園は70%近くが閉鎖され、雑草が空き地を覆い荒れ放題になっている。街灯は10本に4本の割合でしか機能しない。稼働している救急車は3分の1。警官の人数も10年で40%削減され、警察に通報しても警官が現場にやってくるのに平均58分(全米平均の5倍)もかかるという。(以上、Democracy Now!及びWSJ.com参考)

そして2013年7月18日、デトロイト市は連邦破産法9条を申請。負債総額は推定180億ドル(約1兆8千億円)。自治体の財政破綻としては米国史上最大だそうだ。

§

遠いアメリカの出来事である。だいたいが、デトロイトが合衆国の何処らへんに位置しているのかもよく知らなかった。その割には、日本でもデトロイトの破綻は話題になった。中でも印象的だったのは、廃墟と化した街の景観を写した写真の数々だ。財政破綻のニュースは、経済学に興味のある人ぐらいしか深く読み込まないであろうし、ぼくも理解できていない。議論などできるレベルにはないことは重々承知している。しかし、朽ち果てた建物が並ぶ写真を見るにつけ、「財政破綻」がもたらす現実にショックを受ける。やはりビジュアルが訴える力は強い。(「廃墟好き」にはたまらない、と別の意味でも話題にもなっているようだが…)

いちおう補足しておくが、「財政破綻」がもたらす現実、というと語弊があるかもしれない。デトロイト市が財政破綻に至るまでには、主力産業の衰退、それに伴う人口減少、ダウンタウンの空洞化があった。実際には、市が財政破綻する前から、街の廃墟化は進んでいたわけである。すなわちデトロイトという街は、都市機能としてはすでに破綻していた。ビジュアルが訴える廃墟の写真は、「都市機能の破綻」がもたらす現実、と言ったほうがいいかもしれない。

行政機能は崩壊し、企業の倒産、失業問題、犯罪増加、医療危機、格差拡大など、デトロイトの問題は、現在アメリカが抱える問題を凝縮しているように思える。アメリカ政府はそれらの問題を先延ばしにすることでなんとか生き延びているが、格差はますます拡大している。いつ第二のデトロイトが生まれてもおかしくない状況であると思う。オキュパイ運動(Occupy Wall Street)は、それに対するカウンターカルチャーであったはずだ。

デトロイト市の財政破綻や、ビッグ3を経営破綻に追い込んだのは「レガシーコスト」だと言われる。レガシーコストとは、退職した市の職員の医療や年金に充てる費用のこと。景気の良かった時代を基準に設計された年金制度が、人口が半減した場合に立ち行かなくなるのは当然だ。財政問題を解決するには破綻申請しかなかったとのことだが、今後もレガシーコストをどう扱うかが焦点になる。

現在、180億ドルの負債処理を任されているのは、デトロイト市長ではなく、ミシガン州知事リック・スナイダー氏が任命した緊急財政管理官ケビン・オア氏。オア氏は連邦破産法の適用を認めるかを判断する審理で、負債のうち90億ドルについて、市職員1万人と退職者2万人の年金と退職者向け医療保険が占めているとの推計を提示した。これに対して労働組合や年金管理機関は、公的年金はミシガン州の憲法に守られているとして年金受給額の大幅カットを認めないよう訴えた。もし仮に破産裁判所がデトロイト市の年金支払額の削減を認めた場合、多くの年金生活者たちは貧困に陥ることになる。(出典

ひるがえって、これは対岸の火事ではない。少子高齢化が指摘されながら有効な手だてが講じられていない日本の年金制度だって近い将来、破綻することは目に見えている。ましてやアメリカのやること、言うことに右ならえの日本政府である。日本が「デトロイト化」「廃墟化」する可能性が無いとは言えない。

§

話変わって。
ぼくが、所在地もよく知らずにいたデトロイトのニュースに興味を持つのには理由がある。デトロイトと聞いてぼくがまっ先に連想するのは「デトロイト・テクノ」だ。いまや世界中のクラブでプレイされているテクノ・ミュージックが生まれた街。子供が生まれてからは音楽の趣味も変わり、いまはもう聴いていないけれども、お小遣いの殆どをCD購入に充てていた音楽バカであった頃は、いろんなジャンルの音楽を漁るようにして聴いていた。クラブ系テクノを経由して知ったデトロイト・テクノ周辺の音楽にも一時期かなりハマった。その深淵なる世界のとりこになった。(記事下の関連リンクに一例を紹介してあるので興味を持たれた方はぜひどうぞ)

先日、無料化を機に数年ぶりにヤフオク出品を再開した。押入れに放り込んであったCDの山を漁っている最中に、ロス・ヘルマノス(Los Hermanos)の1stアルバム『On Another Level』が目に入った。デトロイトのアンダーグラウンド・シーンにおける伝説的な集団、アンダーグラウンド・レジスタンス(Underground Resistance)のメンバーでもあるジェラルド・ミッチェル(Gerald Mitchell)やDJロランド(DJ Roland)を中心としてリリースされた本作、日本盤帯のコピーには「デトロイト・テクノの金字塔、ここに現る。」と書いてある。

何を隠そうこのアルバム、ぼくがデトロイト・テクノに興味を持つきっかけにもなった一枚だ。久しぶりに聴いてみたのだが、かっこよくて痺れた。たぶん日本人の耳にも馴染みやすいので「デトロイト・テクノ」を知らない人にも聴いてほしい。ちょっとうまく言い表せないが、“男のコ”が好きそうな音楽。アップテンポで、シリアスで、獰猛で、キラキラしてて、哀愁があって。

で、聴きながら思ったんだけど、これって労働歌だよなと(そういう単語は無いかもしれないが、労働者のための音楽という意味で勝手にそう名付けた)。反復するリズムはルーティンワークそのものだし、低音でうねるベースにフラストレーションをぶつけて。哀しいメロディに、やり場の無い鬱憤とちょっとの希望を託して。
デトロイトがアメリカでも有数の工業都市として元気だった頃、街は労働者で活気に溢れていたと思う。やっぱりそこでルーティンワークを与えられる労働者たちにとっての、はけ口というかストレス解消の一種として音楽があったのではないかと。テクノ(をプレイするクラブ)というのも、その同心円上に位置するものなんじゃないかと。イギリスの労働者にとってのパブみたいなもんで。そう考えると、デトロイト・テクノって、労働歌そのものなんじゃないかと。

もっともこれはデトロイト・テクノに限らず、黒人音楽(ソウル・ミュージック)はすべてそうだったのであろうけれども。デトロイト・テクノとは、マシンを使ったソウル・ミュージックに他ならない。反抗と、希望と、祝福の音楽だ。

§

デトロイト・テクノについて書かれた日本でほぼ唯一の本がある。ぼくがデトロイト・テクノに特別な感情を抱くようになったのは本書の影響が大きい。500ページ近くのボリュームにも圧倒されるが、細部まで取材と洞察の行き届いたこの大作には、筆者のテクノに対する造詣と愛情の深さが溢れており、そこにロマンを感じずにはいられない。本書を読む前と読んだ後では、デトロイト・テクノがまるで違ったものに聴こえてくる。

ディスコ文化からシカゴ・ハウス、Pファンクを経由して、デトロイト・テクノの創始者であるデリック・メイやホアン・アトキンスの名前が登場するまでに200ページも費やしているのだから、そのボリュームは半端ない(いまだに全部読めていない)。この音楽が生まれた背景を説明するためだそうだ。

デトロイト・テクノのオリジネイターと言われるデリック・メイは、1983年のシカゴでフランキー・ナックルズの音楽を聴き、衝撃を受ける。同じくオリジネイターと言われるホワン・アトキンスと共に、それまでパーティでDJもしていた彼だが、シカゴのクラブで出会った音楽は「そんなものではなかった」という。以下、本書よりデリック・メイの言葉を引用する。

「正直言って、おれはそのときほどスピリチュアルな体験をしたことがない。すべてが素晴らしかった。音楽、そこにいる人間たち、ダンス、雰囲気、サウンドシステム、それは未知のパワーのようなものだった。もう「ワーオ!」って、おれはもう、そこで何かを掴んだ気がした。なんて言うのかな、例えば、おまえは何故、音楽を聴く? 明日を生きたいと思うからじゃないのか。希望を見出し、ロマンを感じたいからじゃないのか。だとしたら、そういう類いのものすべてがそこにあったんだ。
 初めてフランキーを聴いた翌日、すぐにホワンに電話したよ。「ホワン、おれはついに音楽の未来を見たよ!」もう興奮していろいろ喋った。そしたらホワンは「ああ、おかまディスコのことね」だって、もう全然信じてもらえなかった。「ノー!違うよ、ホワン、そんなんじゃないんだ!」おれは何回もホワンに説明した。「だから、たかがディスコだろ?」って、ホワンにはなかなか伝わらなかったけどね。だけどおれには確信があったんだ。これは音楽の未来だという確信がね。おれはしばらく、毎週末をシカゴで過ごすことにした。
 (中略)
ある晩は本当に教会みたいになるんだ。教会みたいな状態というのがどういうことか教えてあげようか。ロン・ハーディのDJで、みんながコール&レスポンスみたいなことになるんだよ。彼のDJも騒がしかったけれども、フロアはもっとうるさかった。一緒に歌う者、叫ぶ者、信じられない熱気だった。パーティの翌日は、シカゴのキッズはフランキーやロン・ハーディのプレイの話でもちきりだった。パーティに来ていたキッズのほとんどは、フランキーやロンがかけていた音楽が何なのかを知らない。でもキッズはそんなことどうでもいい。彼らはこの街で最高のDJを知っているからだ。
 (中略)
しばらくはシカゴに夢中だったね。それからデトロイトに戻って、自分たちの手でシカゴのようなパーティをやりたいと考えるようになった。おれたちは、<ザ・パワー・プラント>と<ミュージック・ボックス>にあった生気を、あの熱気を、あの素晴らしいひとたちの感情を自分たちの街にも欲しいと考えはじめたんだ。ストレートもゲイも男女も、誰もが本気で楽しんでいるあの体験をデトロイトでも創造したいと思った。希望のない、死んだようなデトロイトの街に、シカゴのようなファンタスティックなヴァイヴが欲しいと思った。
 黒人のキッズがあんなに生気に溢れている現場を見たことがなかったんだ。おれたちには歴史もなかった。シカゴにあったものがデトロイトにはなかった。デトロイトにあったのは、子供にドラッグを売らせて、銃を撃つことだ。少女に売春をやらせることだ。そこに希望があるか? 人生を生き抜くロマンがあるか? だから、おれたちはおれたち自身のものを創造するしかなかった。」(以上、本書より)

メイが繋いだシカゴとデトロイトのアンダーグラウンドは、ホワン・アトキンスが1985年にモデル500名義でリリースしたシングル「No UFO’s」に結実したという。以下に歌詞を紹介する。

希望はないという
UFOはいないという。
それならなぜ、おまえは高みを見るのか
やがておまえは飛ぶのを見るだろう
飛べ!

希望を主題にしたこの曲は、驚くほど的確にデトロイト・ブラックの気持ちを表していたと野田氏は指摘する。ホワン・アトキンスは次のようにコメントしている。

「デトロイトには希望のかけらもない。ストリートで育ったキッズを見ればわかるよ。ドラッグを売って生活する。生きるためには銃だって持たなくてはならない。そしてタフでなければならない。そうさ、ドラッグを売るなんて当たり前さ。そうする以外、ほかに手がないんだ。わかるかい? 希望のない環境は人為的に生み落とされたものだ。自然発生的な過程なんかじゃない。デトロイトの音楽はある種の祈りのようなものでもあるんだ。アメリカに住んでいる黒人たちのね」(以上、本書より)

ぼくが付け足すことは何もない。再びデリック・メイの言葉。

「何故、世界中のこんなに多くのひとがこの一片の音楽から何かを感じとるんだろう。なんで「Strings of Life」はそんなにひとびとにとって大切なんだろう。きみは、高い崖っぷちからダイブしたような、そんな気持ちにさせてくれる音楽を聴いたことがあるかい? 自分でそれはできないかもしれないと思っていても、心の中は満ち足りてしまったようなあの状態、あの曲はきっとみんなをそんな気持ちにさせたんだと思う」「”Strings”はマーティン・ルーサー・キングのことだ。彼が殺されたとき、希望や夢も破壊された。これはかなえられなかった彼の希望なんだ」
シカゴのアンダーグラウンド・パーティの中にデリック・メイが見出した「音楽の未来」とはこのことだった。

「アメリカにはつねにふたつの階級の対立がある」メイは彼の経験してきた“アメリカ”を次のように話す。「スマートなひととゲスなひと。金持ちと貧乏。白人と有色人種。弱者と強者。そしてそこにはつねに嫉妬や足の引っ張り合いがある。とくに黒人のコミュニティではこの50年間はそうだった。50年代に黒人がしっかりとした教育を受けることは同時に黒人のコミュニティからも快く思われないことでもあった。黒人が黒人同士で傷つけ合い、弱い者同士がいがみ合い、そして黒人のコミュニティにはつねに犯罪があり続ける。どうしてそうなってしまうのか、そのことを理解しようとする努力があまりにも欠けていた。だから単純に、多くの黒人の向上心は髪の毛をストレートにしたり、白人社会に迎合したりすることでしか果たせないものになっていたし、あるいはまったくその逆で白人と敵対することでしか自分を保てなくなってしまう人もいた。それでは、つねに誰かが悲しむことになるんだ。おれはそんな世界は望まない。
 例えばイギリスのDJにカール・コックスがいる。彼はまさにイギリスの白人社会で成功した黒人DJだ。でも多くの黒人はカール・コックスを批判する。「やつは媚びている。白人のケツにキスしやがって」とみんなは言う。おれはそうは思わない。何故、カールをカールとして見てあげられないのだろう。何故、カールをひとりの人間として評価しないのだろう。彼は彼自身の実力があって人気DJになった。ただそれだけのことなのに。
 (中略)
何故ひとは自分自身でいられないのだろう」(以上、本書より)

うーむ、デリック・メイ、かっこよすぎる。ちなみに、「Strings of Life」はデトロイト・テクノをまったく知らない人でもおそらく一度は聴いたことがあるはず。89年の貴重なライブ映像があったのでリンクを貼っておく。
Rhythm Is Rhythm – Derrick May with Carl Craign – Strings Of Life LIVE
デリック・メイはこのとき26歳。後ろにいるのは20歳のカール・クレイグだそうだ。

最後に本書から野田氏の言葉を紹介しよう。

これはクラブ・ミュージックについての話だ。と同時にアンダーグラウンドで生きる人たちの自由と快楽と、絶望と希望をめぐる物語でもある。そして願わくば、読者にとって希望の物語であって欲しい。(本書P13より)

くり返すけれども、この本を読む前と読んだ後では、デトロイト・テクノがまるで違ったものに聴こえてくる。単なる機械によるドラムの打ち込み音が、デトロイトの地下に集う彼らの息遣いに聞こえてくる。ルーティンワークのように反復するリズムが、自分の鼓動に聞こえてくる。そう、紛れもなくこれはソウル・ミュージックだ。

§

デトロイト・テクノはいわゆる商業的にはあまり流通していない。現在ではAmazonで簡単に手に入るが、10年くらい前まではずっとアンダーグラウンドな存在だった。(もっとも、彼ら自身がセールスやプロモーションに積極的でないという理由もあるだろう。たとえばムーディーマンことケニー・ディクソン・ジュニアは、音楽がデジタルとして消費されることに批判的な立場を貫いていることでも知られる。彼がヴァイナルにこだわるのは、音質ないしは手触りなどのフェティシズムの問題ではない。デジタルはヴァイナルという個人商店を駆逐するという政治的な理由からだ。(出典))

もしかしたら、現地でもマイナー的な扱いなのかもしれない。彼らの活動の源はアンダーグラウンドにある。だけど、商業的な規模に関わらず、リスナーの数に関わらず、その土地に根付いた音楽であったのだろうと想像する。音楽にもルーツがある。それは、そこに住む人たちの生活から派生するものだ。音楽が生まれるところには、時代や環境といった背景がある。それが文化になる。文化というのは、土着的なものだと思う。デトロイト・テクノはデトロイトのアンダーグラウンドでしか生まれなかったであろう。

チープな図式かもしれないけど、資本家(あるいは経営者)と労働者という構造は資本主義社会では必ず出てくるわけで、そこから発生してくる経済格差や関係性、感情なんかは、どこの国でも、あるいは「資本論」の頃からあまり変わってないのかもしれない。イギリスのオアシスがロックンロールの寵児となったのは、ギャラガー兄弟が労働者階級の出身であったことと無縁ではないと思う。ロックとは反抗の音楽だ。

黒人音楽は、ロックが誕生するずっと前からその歴史上にあった。何に対して反抗していたのかというと、権力や体制といった、「大きなもの」に対する反抗だった。ロックは黒人音楽から派生した。ファッションとしてのロックよりも、反骨精神としてのロックが力をもつ時代があった。いまの若い人は、そんなロックを知らないかもしれない。だって、何に反抗したらいいのか、非常に判りづらい時代だから。

デトロイト・テクノは紛れもなく「反抗の音楽」だ。だって「アンダーグラウンド・レジスタンス」だよ。デトロイトのアンダーグラウンドでしか生まれなかった土着的な音楽が、国境や時代を越えて愛されるのは、その音色に共鳴する人々がいるからだ。勘違いしないでほしいのだが、はじめから普遍性をもって愛されるものを作ろうとしたのではなく、あくまでも個人的で土着的な発露から作られたものであるからこそ、国境や時代を越えて語り継がれるのだという、一見矛盾するような創造のマジックを彼らは体現していると思う。
だからこそ、オアシスがそうであったように、共に働き共に生活する同胞を讃え、そこに集う仲間を結束させる、祝福的なヴァイヴが、彼らの音楽の根底にはある。そして日本や欧州でも数多くのフォロワーを生んでいる。

スペイン語でロス・ヘルマノスとは、”ブラザー”を意味する。この言葉の裏には、異なる文化、環境、技術、そしてスピリットを持つ人間が音楽のために協力するという意味が含まれているそうだ。(出典

§

デトロイト市の破綻に話を戻す。このニュースを耳にした時に、ぼくが思ったのは、デトロイト・テクノ(つまり現地のアンダーグラウンド・シーン)はどうなっているんだろうということだった。その手の音楽をめっきり聴かなくなってしまったので、現在のシーンには疎くてよく分からない。もっとも、市が財政破綻を申請するずっと前から、街の荒廃は指摘されてきたわけで、その中で作られてきたデトロイト・テクノがいまさらどうこう変わるわけでもないとは思う。ただ、彼らの「反抗の音楽」とは、野田氏の言葉を借りれば、絶望と希望をめぐる物語でもあった。そして願わくば、やはり希望の物語であって欲しい。今回の絶望を経過してもなお希望の種は消えずに、テクノの音色は鳴り続けるのかどうか、ちょっと気になる。

デトロイトの破綻は、アメリカの「貧富の格差拡大」の象徴である。この貧富の差の拡大に、米国経済に潜む病根が凝縮されている。内国歳入省(日本の国税庁に相当)の資料によると、2010年の米国全世帯の個人所得は前の年に比べて2.3%増加したが、所得上位わずか1%の富裕世帯が全世帯の所得増加分のうち、なんと93%を占めた。一方で、全体の80%の世帯は所得の減少に見舞われているという。(出典

前述したオキュパイ運動(Occupy Wall Street)は、1%対99%という社会構図に対するカウンターカルチャーであった。第二のデトロイトがいつ生まれてもおかしくない状況に現在のアメリカはある。
9.11同時多発テロを世界貿易センターで体験して以来ジャーナリストに転身した堤未果さんは、『ルポ貧困大陸』シリーズで、経済格差が急激に拡大し二極化するアメリカのすがたを克明に描写している。落ちこぼれゼロ法(教育ビジネス)、経済徴兵制(戦争ビジネス)、高額な医療保険(医療ビジネス)、フードスタンプ(アグリビジネス)。そして愛国者法。残酷なまでに99%を搾取する仕組みが、素知らぬ顔をして、あらゆる方向から逃れられないように迫ってくる。アメリカ建国の精神は、いまや自己責任を弱者に押し付けるための方便に矮小化されてしまった。アメリカ政府は、国民よりもグローバル企業の動向に歩調を合わせることに熱心だ。

最新作『(株)貧困大国アメリカ』では、デトロイトの公共サービスが崩壊している様子についても言及されている。

堤氏は、教育の市場化がデトロイト破綻の一因になったと指摘する。以下に、本書から引用しつつ説明する。

「このままでは全米の自治体の9割は5年以内に破綻する」元ロサンゼルス市長は2011年にテレビ番組のインタビューでそう警告し、公務員の福利厚生や労働条件など労働組合の力が大きくなりすぎたことが地方行政の最大の問題だと指摘した。

ブッシュ政権が導入した「落ちこぼれゼロ法」では、生徒たちの点数が上がらなければ国からの予算が出ないだけでなく、その責任が学校側と教師たちにかかる。低所得者層の多いデトロイトの公立学校ではなかなか平均点が上がらず、教師たちが次々に解雇され、学校が廃校になった。公立校がつぶれると、すぐにチャータースクール(営利学校)が建てられる。7年で元がとれるチャータースクールは投資家にとって魅力的な商品なのだ。しかし入学には、高い授業料と一定以上の学力が要求されるため、デトロイトでは教育難民となった子供が路上にあふれ、失業した教師たちは州を出るか、SNAP(フードスタンプ)を申請した。
教育の市場化は、公教育を破壊して教育格差を作り出し、財政負担をさらに拡大させた。恩恵を受けたのは投資家と大企業、それにSNAPで売り上げが伸びた大型スーパーやファーストフード店、SNAPカードの手数料が入る銀行だけだ。

公務員と公教育が「教育ビジネス」のターゲットになっているのはミシガン州だけではなく、アメリカ中で起こってる動きだという。ハリケーン・カトリーナの後のニューオリンズでは、「もっと強い、国際社会で通用する人材を育てるために強い教育を」という政府の呼びかけのもと、被災により損害を受けた公立校を廃校するとともに、その跡地に大量のチャータースクールが建てられた。「災害」を理由にしたショック・ドクトリンはニューオリンズで成功したのだ。そして今度は「自治体破産」を理由に、デトロイトが次の市場に変えられていくのを投資家は熱い期待とともに待っている。

次々に町が破綻し、廃墟が広がるミシガンですら、上位1%の層は順調に収益を上げている。今のアメリカは、貧困人口が過去最大であると同時に、企業の収益率も史上最高なのだ。

ミシガン州スナイダー知事は、2012年12月、組合への加入と支払いの義務化を廃止する法律「労働権法」に、反対を押し切って署名した。これで労働コストは安くなり、企業にとっては効率のよい経営ができるようになる。労働権法を入れた州ではたしかに失業率は下がっているが、数字を改善しているのは、労働条件の悪い低賃金雇用が圧倒的だ。一方で、ミシガンのように組合の力が強い土地では、組合が既得権益にしがみつくあまり破綻を招いたというのもまた事実であるという。(以上、本書より適時編集)

§

「特権にあずかる公務員や労組」を標的に据えるという切り口が大衆の支持を得やすいということは、日本でも同じような現象が起きていることからも容易に想像できる。民営化こそが善である、という単純な思い込みは、一部の成功例を引き合いに出されることで、大衆の間で根強く信奉されている。

安倍首相は、国会の施政方針演説において「世界で一番企業が活動しやすい国」を目指すと宣言した(出典)。「強い日本」をつくる、「国際的な大競争時代」で「世界のフロンティアへ羽ばたく」人材を育成する、とことあるごとに強調している。いつから「経済発展」が「国是」のように扱われるようになったのか知らないが、ニューオリンズの施政方針とまったく同じである。断言してもいいが、現在の日本が「世界のフロンティアへ羽ばたく」ことは不可能だと思う。他でもない掛け声をあげている首相が、アメリカのやること、言うことに右ならえの「親米家」であるからだ。「1%」の栄光にはご熱心であるが、「99%」の現実などまるで眼中にないようにお見受けする。「アベノミクス」の恩恵など、待てど暮らせどわれわれ99%には巡ってこないであろう。

中央政府は実質的に大企業が牛耳っており、彼ら(1%)の利益を正当化するために、「経済成長」というお題目が掲げられる。これは多かれ少なかれ、世界的な潮流なのであろう。この流れは加速していく予感がする。アメリカの1%は自国の99%を食いつぶし、今度は世界を99%化し始めている。TPPはまさにそれを象徴するアメリカ側のリーサルウェポンである。特定秘密保護法案は、「国家の株式会社化」プロセスの一環であると内田樹氏は指摘する(参考)。

§

もうひとつ、「切り売りされる公共サービス」いう流れでたいへん印象的だった出来事がある。デトロイトが破綻していく一方で、アメリカでは自治体を民間が運営する都市が誕生した。言うなれば、金持ちの金持ちによる金持ちのための都市である。ふたたび『(株)貧困大国アメリカ』から引用する。

2005年8月、ハリケーン・カトリーナによって大きな水害に見舞われたジョージア州では、アトランタ近郊に住む富裕層の不満が拡大していた。水没した地域住民のほとんどが低所得者層だったのだ。なぜ自分たちの税金が、貧しい人たちの公共サービスに吸い取られなければならないのか。莫大な予算をかけて被災地を復興させても、住民の多くは公共施設なしでは自活できないではないか。政府の介入はまるで社会主義だ。いったいどれだけ貴重な税金を投じなければならないのか。

納得のいかない彼らは住民投票を行い、ベストな解決策を打ち出した。群を離れ、自分たちだけの自治体を作って独立すればいいのだ。彼らは自治体の運営に関しては素人だったが、富裕層には大手企業がちゃんと近づいてきてくれる。すぐに両者の間に契約が成立した。この動きは、数ヶ月という短い時間で、目立たず速やかに進められた。全米の関心はハリケーン・カトリーナと被災地に集まっていたからだ。

かくして2005年12月、人口10万人、全米初の「完全民間経営自治体」サンディ・スプリングスが誕生する。雇われ市長1人、議員7人、市職員7人。余分な税金を低所得者層の福祉などに取られずに、効率よく自分たちのためだけに使えるのだ。警察と消防以外のサービスはすべて民間に委託し、費用に見合ったサービスが受けられる。市のホットラインは24時間対応可能。政府統治機構を株式会社に委託するというサンディ・スプリングスの誕生は、小さな政府を望む富裕層の住民と大企業にとって、まだに待ち望んでいたことの実現だった。
もちろん、権利ばかり主張する「いまいましい組合」など存在しない。何しろ住民はみな平均年収17万ドル(約1700万円)以上の富裕層と、税金対策で本社をおく大企業なのだ。外部の者が簡単に入れないよう警備も充実しており、住民には安心で快適な暮らしが約束されている。

過疎化が進む地域はどんどん取り残され、自治体の再分配機能は働かなくなってしまうと、周辺地域の政治家が頭を抱える一方で、この新しい民間経営自治体への関心はとどまるところを知らない。噂は世界中に広まり、中国やサウジアラビア、インド、ウクライナなどからも視察団が訪れるほど人気が高まっている。

サンディ・スプリングスが象徴するものは、株主至上主義が拡大する市場社会における、商品化した自治体の姿に他ならない。そこで重視されるのは効率とコストパフォーマンスによる質の高いサービスだ。そこにはもはや「公共」という概念は、存在しない。(以上、本書より適時編集)

内田樹氏は、日本は「シンガポール化」を目指していると指摘しているが(参考)、それは「サンディ・スプリングス化」と置き換えてもいい。

§

たまたま目にしたデトロイト・テクノの音楽を久しぶりに聴き、デトロイト破綻のニュースを思い起こしたときに、ぼくはふとサンディ・スプリングスのことが頭に浮かんだのだ。
いったい、サンディ・スプリングスのような街ではどのような音楽が鳴り響くのだろうかと。投資家による、投資家のための街では、いったいどのような音楽が生まれるんだろうかと。いや、果たして生まれるんだろうかと。前述したように、文化というのは土着的なものだと思う。そこに住む人たちの生活や息遣いから生まれるものだ。

少なくとも、サンディ・スプリングスではデトロイト・テクノのような音楽=ソウル・ミュージックは鳴らされない(生まれない)だろう。「邪魔な」低所得者層を排除したピカピカの街では、「反抗の音楽」は必要ないわけだから。株式会社が席巻する社会とはすなわち、「消費される商品」が正しいものであるという価値観によって形づくられる。その帰結として、汚いものは排除され、いつも綺麗でピカピカのショッピングモールのように「漂白された」社会になる可能性は大きいと思う。

デトロイト・テクノはデトロイトのアンダーグラウンドでしか生まれないということはすでに述べた。と同時に、ロックとかテクノって、基本的に暗い奴がやらないとダメなのだ。クラスの中で進んで学級委員長になりたがるような明るく元気な優等生や、プレゼンが得意な明朗快活ビジネスマンがやるものじゃない。数字や言葉で簡単に伝わるなら、わざわざ音楽なんて演りはしない。落ちこぼれの、鬱屈した、うじうじした少年が、やむにやまれず表出させてしまった音っていうのがロックでありテクノなのだ。

この記事にも書いたが、ピート・タウンゼントは、「ロックンロールは、別に俺たちを苦悩から解放してもくれないし、逃避させてもくれない。ただ、悩んだまま躍らせるんだ。 」という至言を残している。もちろんテクノも同様だ。そのきわめて「個人的な」衝動の中にしかアンダーグラウンドは存在しないんじゃないかと、ぼくは思ってる。

§

デトロイトの光と影。

光と影は表裏一体だ。しかし影は時として邪魔になる。とくに、利益優先のビジネスの場においては、排除の対象となる。「個人的な」衝動や意見は、損益が第一義の企業論理においては押し込められる。
ぼくが言いたいのは、デトロイトの犯罪や希望のなさといった影の部分が無くなることを望んでいないということではない。それらの生活圏から生じる衝動や感情といった、きわめて個人的なヴァイブというものは、そう簡単に消せはしないということだ。

緊急財政管理官のオア氏が財政再建に乗り出した現在のデトロイトには、再開発が進むのなら今のうち投資しておけと、これから生まれるかもしれない新たな住民たちに向けて安い物件を買う業者がすでにどしどし入ってきているという。人口の8割以上が黒人になったデトロイト市内では、2012年の大統領選で投票者の98%がオバマに票を入れ、共和党のロムニー候補への投票はわずか2%だったと言われる。人種とクラスで分断された地域で、オア氏やスナイダー知事が相手にしているのは、現在の住民ではなく、新たにやってくる人たちだという指摘もある。(出典

一方で、落ちるところまで落ちたデトロイトに明るい光がわずかばかり差している、という記事もある。無法地帯と化した街と人々の暮らしを救うべく立ち上がったのは、若い民間のスタートアップだそうだ。

破綻都市デトロイトをスタートアップが救う!コミュニティ再生の鍵は「民間」にある – WIRED.jp

民間による都市の再生と聞くと、どうしてもサンディ・スプリングスの例を思い浮かべてしまう。それはオア氏やスナイダー知事が舵取りをするネオリベ路線とも符合する。しかし、この記事を読む限りは、幸先は悪くないように思える。若い世代が立ち上がり、しがらみのない土地で「有機的なムーヴメント」を起こし、「コミュニティの人々が再生への道に参画」することに成功するならば、あるいはデトロイト再生の可能性はあるのかもしれない。

もし仮に、デトロイトが再生したとしたら、そこで鳴らされる音楽はいったいどのような音色を奏でるのだろうか。祝福に満ちた音楽だろうか。それとも漂白された音楽だろうか。聴いてみたいような、みたくないような・・・。

破綻都市デトロイトが、この先どのような道を辿るのかは、誰にも分からない。
今度デトロイトのニュースを耳にした時は、どこか物悲しく、しかし生命力に満ちたデトロイト・テクノの音色を聴きながら、再び妄想を膨らませることにしようと思う。

§

追記(12/5)
12月3日付のニュースによると、連邦判事スティーブン・ローズは、連邦破産法は州法よりも優先され、公的年金を保護する州法を無効にすることができるという裁決を下した。この判決によりデトロイト市は、市職員の健康保険と退職手当の予算を大幅に削減できることになる。(出典

(関連記事)
米裁判所、デトロイト市に破産法適用認める 年金削減も承認 – ロイター
米連邦裁、デトロイト市への破産法適用認める – ウォール・ストリート・ジャーナル日本版

「デトロイト市の事例は、持続不能な年金費用という多くの地方・州政府が直面する慢性的な問題に対してどの程度対応できるかを示すテストケースとなり得る。」とWSJ誌は報じている。日本もけっして他人事ではない社会保障の問題として、デトロイトの今後に注視したい。

Continue reading

Tweet about this on TwitterShare on FacebookShare on Google+Share on TumblrEmail this to someone

スマホ子守やめてという正論やめて

Tweet about this on TwitterShare on FacebookShare on Google+Share on TumblrEmail this to someone

昨夜、寝る前に目にした記事。

スマホ子守やめて…小児科医会 啓発へ – 読売新聞

「スマホに子守をさせないで!」。日本小児科医会(松平隆光会長)は、乳幼児の心身の発達への影響が心配されるとして、来月から、スマートフォンの利用を控えるよう保護者に対し啓発活動を行う。

スマホの普及に伴い、絵本やパズルなど乳幼児向けのアプリも増えている。中には100万回以上ダウンロードされている人気アプリもある。スマホを子供に渡して、こうしたアプリで遊ばせたり、アニメの動画を見せたりして、放っておくケースもあるという。

 東京都内の1歳児の母親(32)は、「子供が外出先でぐずると、つい渡してしまう」と打ち明ける。

 今月1日には乳幼児向けアプリを企画・販売する企業が、乳幼児のスマホ利用のガイドラインを独自に作成した。「親子で会話をしながら一緒に利用しましょう」「創造的な活動になるよう工夫しましょう」など5項目で、ホームページで公表している。

 ただ、日本小児科医会の内海裕美常任理事は「乳幼児期は脳や体が発達する大切な時期。子供がぐずるとスマホを与えて静かにさせる親がよくいるが、乳幼児にスマホを見せていては、親が子供の反応を見ながらあやす心の交流が減ってしまう」と指摘する。また、画面をなぞるだけの仮想体験を重ねることが、手の機能や五感を育むことに影響を与えかねないと心配する。

気持ち悪い記事だなあと思いつつ、眠かったので深く考えずにそのまま入眠。
翌朝、さっそくこの記事に噛み付いているやまもといちろうさんの記事を目にして、たいへん共感しました。実際に現在進行中で子育てをしている親からしてみれば、やまもとさんの言っている内容に頷くことのほうが大きいと思います。少なくともぼくは、ほとんど同意です。

「スマホde子守」の是非(山本 一郎) – 個人 – Yahoo!ニュース

基本的には、レストランや電車などの公共交通機関など、騒いで欲しくない局面で必ず騒ぐ仕様になっています。この親の顔が見たい状況に陥るのは、私たち親の教育が悪いのではありません。そこに子供が登りたがる高さのソファーだったり、子供が投げやすい形状の調味料入れがあったり、くぐって腹ばいになるのに適した大きさのテーブルであるとか、騒いでいる子供を見ると露骨に嫌な顔をする年寄りやカップルに責任があります。

(中略)

朝から晩まで頑張って育児していても、何でもするのが子供というものであります。

私たち夫婦が何も悪くないということを存分に読者に印象付けたところで、出てまいりますのはこちらのiPad。もうね、これのお陰で父親母親が人間らしい生活が送れるのだといっても過言ではないほど、大騒ぎが日課の兄弟には抜群の効果をもたらしてくれます。最高。

(中略)

こんなスマホで少しの時間大人しくしてくれて、他人に迷惑がかからず親も息抜きできるんであれば、そう多くない時間与える分には何の問題もないのではないでしょうか。

もうまったくその通りでして、大人が「言ってきかせる」ことが出来るんなら、誰も苦労しないですよ。日本小児科医会のお偉い先生方によれば、まるで、子供にスマホを見せている親は子供の反応を見ていないとでも言いたげですが、スマホを与えてでも静かにさせなきゃいけない、というところまで親を追いつめているものは何なのかについて、少し思いを巡らせたらいかがかと思います。

おそらくいつの時代にも繰り返されてきたであろう「しつけ論」。親学や道徳教育やらといかにも親和性の高そうなご高説です。それらは「正論」という顔をしています。ぼくが気持ち悪いと感じるのは、その多くが紋切り型の定型文になっている点と、それらが自身を戒めるためのものではなく他人を貶めるためのもとして機能しているからです。

子供が「騒ぐ」「ちゃんとしない」のは、親がちゃんと「言い聞かせない」のが悪いからだと。子供の育ちにとって、家庭での環境が第一のベースになることはその通りだと思います。家庭での教育が最重要であることも頷けます。しかしだからといって、「悪いとき」だけ親のせいにされるのではたまったもんじゃありません。ふだん「言い聞かせ」していないとでも?というか、なんでそういう時だけ他人の子供の教育に首をつっこみたがるのか。あんたそんなにおとなしく大人の言うことをきく「良い子」だったのか。

そりゃあね、「親が子供の反応を見ながらあやす心の交流」で、子供が公共の場で「良い子」にしてくれるんなら、それにこしたことはありません。そりゃあね、安易にスマホを見せて静かにさせることに躊躇がないわけじゃないですよ。出来ることなら、「言ってわかる」子になるような家庭教育を実施したいですよ。だけど、それはあくまで机上の論理です。現場を無視した理想論です。

読売新聞の元記事が、印象論だけで書かれた粗雑な論旨なので、ぼくも印象論だけで書きます。自信をもって他人に語れるような子育てをしているわけでもありませんし…。

しつけって要はルーティンワークなわけじゃないですか。「言えばわかる」というのは結果的にはそうなのかもしれませんが、何回言ってわかるか、何万回言ってわかるかはその子の個性によります。数式だってすぐに覚える子もいればなかなか覚えられない子もいる。逆上がりだってそうです。向き不向きにもよる。しつけも同じようなもので、同じことを延々と何万回も言い続けることで、ある日とつぜんに出来るようになるのだということを聞いたことがあります。いまうちの息子は4歳ですが、ぜんぜん言うことを聞きません。それはもうびっくりするくらい「言ってもきかない」。いつかわかるようになると思わないとやってられません。じゃあその「言ってわかる」までの回数が、子供の善し悪しを決めるというのでしょうか。

おそらく、こういう「しつけ論」をぶつ人って、子守りをしたことのない人か、子育てがスムーズにいった人かのどちらかでしょう。子育てがうまくいったというケースは、それが親のやり方がよほど良かったのか、子供の性格が良かったのか、それともたまたまだったのかは分かりませんけれども。いずれにしても、自身の成功体験を子育ての極意みたいにすべての子育てに当てはめて上から目線で語るのは、そこから外れる人への圧力にしかなりません。子供の性格や育ち方は千差万別ですし、誰だって望んでガミガミ叱ったりしたくなんかないし、それが「しつけ」なのか自分の怒りの感情なのか判然としない境界線上で揺らぎながら子供と向き合っている親御さんのほうが多いと思います。

それと、大人の「言うことをきく」子がほんとうに「良い子」なのか。それって「大人の都合」という物差しでしか見ていないんじゃないか。という問いかけは自分の中に常にあります。もちろんだからといってすべて「子供の都合」に合わせていたら生活が成り立たないことは重々承知しています。これは答えのない問いです。

「正しい子育て」なんて存在しない。スマホが普及してから、たかだか数年です。子供の成長に与える影響を判別するにはスパンが短すぎる。というか、子供にとって良い影響か悪い影響かだなんて、誰がどういう基準で決めるんでしょうか。「誰かの都合」にすぎないってことはないでしょうか。

印象論を加速させます。読売新聞の元記事が気持ち悪いのは、「いまの親はダメだ」という個人的印象に基づいて、その印象を増長するための論旨展開でしかないからです。1歳児の母親のなんてことない台詞を、まるで悪いことをしているかのように「打ち明ける」と表現したり、「スマホを子供に渡して放っておく親」というイメージに基づいてミスリードしていることが端々から垣間見える。新しいモノが登場すると必ず表出するアレルギー反応にも見えます。

子供の「ゲーム脳」を問題にするより、こういう記事を書く「偏見脳」のほうがよっぽど害悪だと思います。自分らの頃にはこんな便利なものは無かった、というやっかみ以上にこのような「啓発活動」を行う理由があるんでしょうか。「正論」をぶつ自分に酔ってるだけじゃないの。こういう「啓発好き」な人にかぎって、公共の場で子供が騒ぐのは親のしつけが云々と説教を垂れて親を追い込むわけで。何の躊躇もなくスマホを与えて放っておく親、というモンスターペアレント像は、「啓発好き」な言説が作り上げた虚像に近いと思います。子供にスマホを見せたその一瞬だけを切り取って、親の教育が云々言い出すのは、あまりに早計で稚拙です。

くり返しますが、親の言動が子供に与える影響は間違いなくあります。そんなことは、多くの親御さんはわかってます。わかってる上で、スマホを使うことだってありますよ。いまうちの息子は4歳ですが、ぜんぜん言うこと聞きません。それはもうびっくりするくらい「言ってもきかない」。もう毎日おなじことでガミガミくり返し、こっちが嫌になります。それでも言い続けずにはいられないのは、親だから。何万回と言い続けることでいつかわかるようになるというのを信じるしかない。だけど四六時中子供と向き合っているだけの時間はありません。それに親だって疲れるし、休みたいときだってある。それを上から説教されたり、冷たい視線を投げ掛けられたりするのは、無言の同調圧力という刃にしかなりません。なんの助けにもならない。

たまたま外で見かけた他人の子育ての一コマを、勝手に脳内でモンスターペアレントに化けさせて、勝手に憂いて、勝手に正論を押し付けるのは、あんまり良い趣味じゃないと思います。日本小児科医会という「権威」を装ってこういう記事を吹聴するのはやめていただきたい。と、こういうことを書くのもあんまり良い趣味じゃないですが、愚痴りたかったので。駄文失礼しました。

Tweet about this on TwitterShare on FacebookShare on Google+Share on TumblrEmail this to someone